見出し画像

杉田庄一ノート65 昭和19年7月〜ダバオ「201航空隊編成」

 マリアナ沖海戦で日本海軍の航空勢力は、ほぼ壊滅状態となる。サイパン島の玉砕では、多くの民間人が島の北部に追い詰められ断崖から身を投げた。多い時には一日に70人以上が崖上から海に飛び降りたという。米軍が撮影した映像が残っていて、サイパンの悲劇としてよく使われているので目にしたことがある方も多いだろう。サイパン玉砕は7月9日である。7月21日から8月11日はグアム島の戦い、7月24日から8月3日はテニアン島の戦いと続いた。

 サイパン陥落は東条内閣をも揺るがすことになる。それまでも東条首相をおろして早期和平に持ち込もうと考えていた重臣の岡田啓介、米内光政、近衛文麿、吉田茂、牧野伸顕らがひそかに動き出す。まず、嶋田海軍大臣をやめさせ、7月18日に東条内閣は総辞職し、7月22日に小磯・米内連立内閣が誕生するが独走する軍部を政治の力ではコントロールすることはできなかった。このあと1年かけてゆっくりと戦争終結への道を歩み出すことになる。

 さて、杉田や笠井氏がグアムを脱出して着いたのがペリリュー島である。マリアナ諸島の南方に位置するパラオ諸島のさらに南約50kmにペリリュー島は位置し、かろうじてまだアメリカ軍は到達していなかったが、時間の問題と思われた。7月初旬、マリアナ沖海戦後に、基地航空隊「豹」「虎」「隼」「狼」の生き残りたちが集まってきた。また、ラバウル、トラック、海南島、フィリピン方面にあった航空隊も解体された。7月10日、各部隊の飛行機や搭乗員が統合されて新しく航空隊を編成することになる。四個飛行隊で編成される「第201海軍航空隊」である。基地をフィリピンのダバオに置くことになり、隊員たちは一式陸攻に便乗し、ペリリュー島から移動する。263空の隊員たちは、戦闘306飛行隊に配属される。

 ペリリュー島は、その後、9月15日にアメリカ軍が上陸するが、日本の海軍および陸軍の残存兵の激しい抵抗にあい、11月27日に掃討作戦の終結宣言を行うまで壮絶な戦いを繰り広げた。アメリカ軍は2000名前後の戦死者と8000名以上の戦傷者を出した。10500名いた日本兵は34名しか生き残らなかった。

 戦闘306飛行隊の司令は山本栄大佐、副長は玉井浅一中佐、そして、分隊長が菅野直大尉であった。菅野直大尉は、23歳の海兵70期生である。海兵(海軍兵学校)出身と聞いて笠井氏たちは不安な面持ちになる。前線では激戦を戦い抜いてきたベテラン士官や准士官クラスが分隊長となるケースが多かったからだ。超エリートである海兵を出たばかりの士官の操縦技術に疑問を持っていたのだ。
「海兵70期? それやったらろくに空戦技術もないやろうし、ほんまに分隊長がつとまるんやろか」と笠井氏は、同期隊員と陰で言い合っていたと『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)の中で記述している。

 菅野大尉は、大正10年(1921)に宮城県の伊具郡枝野村(現角田市)で生まれた。ガキ大将ではあったが、石川啄木を愛す文学少年で、文芸サークルに入り詩を投稿する中学生でもあった。経済的な事情から大学進学をあきらめ海軍兵学校と陸軍士官学校を受験する。身長が不足し、陸士は不合格であったが、海兵には合格した。身長は約160cmだった。昭和13年(1938)に海兵70期として入校、昭和16年(1941)に卒業し少尉候補生となる。昭和17年(1942)に飛行学生を希望し、昭和18年(1943)戦闘機専修として大分航空隊で延長教育を受けた。海軍兵学校時代まではそう目立つほうではなかったというが、大分で戦闘機訓練を行う頃から操縦技術で特性をあらわすようになる。追随訓練では他の学生よりも危険なほど接近したり、乱暴なほどのスタントを行ったりという破天荒ぶりで、教員(階級では士官の菅野の方が上)たちから「デストロイヤー」(破壊者)というニックネームをもらうことになる。実際に訓練で壊してしまった飛行機が4〜5機という。昭和18年(1943)9月15日に厚木空付になり。昭和19年(1944)2月に第343海軍航空隊「隼」部隊の分隊長を拝命した。このときの343空は初代である。そして、マリアナ沖海戦に参加するが「隼」部隊は7月10日に解隊し、第201海軍航空隊戦闘306飛行隊の分隊長として着任したという経歴である。

 このとき4飛行隊の所属を決めるのに先任順に各隊長が現部隊を選んでいった。腕はたつが荒くれ者がいて扱いにくいと最後まで残ったのが263空の連中だった。その代表格が杉田だったと碇氏が『最後の撃墜王』(碇義朗、光人社)の中で書いている。菅野大尉は、そのことを承知して分隊長になる。自分とよく似ている猛烈果敢な杉田の経歴を知って関心をもったのであろう。そしてまた杉田も熱血漢の菅野大尉に心底ほれこんでしまうことになる。

 さて、着任してすぐに菅野大尉は勇猛といわれてきた本領を発揮する。笠井氏は、対面したばかりの頃の菅野大尉について次のように記述している。 

 「間もなく邀撃戦を戦ってわかったが、菅野大尉は攻撃精神が凄かった。とにかく物凄かった。『ろくに空戦技術・・・』どころではなかった。勇猛果敢で中肉だから、のちに菅野大尉のことを『ブル(ブルドック)』と隊員の間で呼んでいた。
『ブル』のあだ名どおり、『文句なしに俺についてこい!』とぐいぐい引っ張っていくので、昼間の訓練指導は厳しかった。しかし、部下であるわれわれ下士官を殴ったりするようなことは一度もなかった。そして、訓練後は自由にさせてくれたので、上陸時には階級など関係なく、みな一緒にトラックに乗ってダバオの街に繰り出していき、一杯飲んだり、官品のタバコを物々交換に使ってバナナを買ったりして束の間の休息をとった。」・・・『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)

 杉田が笠井さんの前に最初に現れた時と同じである。厳しい訓練とその後の無礼講。きびしいけれど優しいというメリハリの効いた対応。鉄拳制裁が当たり前の上下関係がきびしい海軍ではありえない関係だったのだ。

 以前のnoteに「菅野直大尉あらわる」として、もう少し詳しく記している。


 このあと笠井さんは、菅野直・杉田庄一コンビのもとで終戦まで戦うことになる。この2人は階級を超えてまるで兄弟のように仲が良かったと戦後、述懐している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?