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杉田庄一物語その12 第二部「開戦」緊迫する情勢

杉田が操縦訓練に明け暮れていた頃、日米間の緊張は戦争を意識するまで高まっていく。

六月十七日、オランダ政府が日本資産を凍結
      南方からの石油やゴムなどの調達ができなくなる
六月二十一日、ハル米国務長官が「日米諒解修正案」を提示する
      ①日独伊三国同盟からの離脱
      ②中国からの日本軍撤退
      ③南進政策に武力は用いない
六月二十二日、独ソ中立条約を破棄し、ドイツがソ連に侵攻をはじめる
      独ソ戦の開始
六月二十五日、大本営政府連絡会議において南部仏印への武力侵攻を決定する。
七月十八日、第二次近衛内閣が総辞職、豊田新外相によって日米交渉を継続する。
七月二十五日、米国が在米日本資産を凍結する。
七月二十六日、英国が日本資産を凍結し、日英通商航海条約の破棄を通告する。
七月二十八日、日本陸軍が、南部仏印へ武力侵攻を開始する。
八月一日、米国が対日本石油輸出の全面禁止を通告する。

 この時点で日本の石油備蓄は二年分に満たず、戦争ともなれば莫大な石油消費により一年で尽きることが予想された。「石油がなければ海軍は動けない。今なんとかしなければ・・・」という焦燥感が海軍をして対米戦争へ踏み込む最後の一押しとなる。米国としては、石油輸出禁止が戦争抑止につながると考えていたが、かえって戦争へ加速する結果になってしまう。陸軍も、対ソ戦に向けての戦略を捨て南方方面への武力行使による資源確保に専念することを決定する。

 九月一日、海軍が戦時体制に移行する。中国大陸に派遣されていた航空部隊のほとんどを引き上げ、台湾と中部太平洋方面に移動した。四年間における中国大陸での作戦を終了させたが、初めて経験した航空作戦において、日本の航空機の性能が世界トップレベルであることは確認できた。しかし、失った搭乗員数が予想をはるかに上回った。搭乗員養成には年単位の時間がかかり、すぐには補充できない。特に士官搭乗員は数が少ないにもかかわらず、この四年間で現士官数と同じ数の戦死者が出ていた。日米開戦にでもなれば、あっという間に幹部搭乗員が不足する。そのことを憂いていたのは山本五十六など一部の航空畑出身者たちだけだった。
 九月六日、御前会議において、「帝国国策遂行要領」による開戦時期が議論される。開戦時期については早期開戦を主張する海軍案(第一次案)と長期準備を必要とする陸軍案(第二次案)があった。石油備蓄が尽きた時点で何もできなくなる海軍としては、十月中旬になっても要求が受け入れられなければ開戦やむなしという意見が強かった。
 発言権のない天皇は、二度に渡って明治天皇の詠んだ御製を朗詠し、懸念を伝えるしかなかった。「四方の海 みな同胞と思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」
 その場にいた一同みな襟をただした。「戦争をさけ、外交努力をせよ」と解釈するのが妥当だが、一部軍関係者は、日露開戦時に明治天皇が詠まれたことを根拠に天皇の開戦決意と曲解してしまう。

 九月中旬、東京に連合艦隊全艦隊の司令官が集合し、海戦についての会議を行われた。このとき出席していた井上成美第四艦隊司令官は、会議内での山本連合艦隊司令長官の「零戦わずか三百機しかない!」という鎮痛な発言がいつまでも耳に残っていたという。事実、新鋭機零戦の増産体制を整えつつあったが、この時点での海軍の艦上戦闘機の主力はまだ九六戦だった。

 十月一日、米国からの石油輸入が途絶えたため、乗用車のガソリン使用が全面禁止となる。「ガソリンを得るには南方進出が必要」と多くの日本国民も思いこむようになる。
 十月二日、米政府が日本政府に対して、「ハル四原則」(①あらゆる国民の領土と主権の尊重②他国への内政不干渉③機会均等④太平洋の現状を武力によって変更しない)を示し、仏印や中国からの撤兵を要求する覚書を通知してくる。このことは米国が強硬な姿勢を崩さないことを示した。国民の間にも日米開戦が現実のものとして予感されるようになっていく。日本陸海軍も対米開戦にむけて最後の詰めの段階に入ることになる。

 十月十六日、近衛首相は、日米交渉最大の要点である「中国からの日本軍撤退」を十二日の五相会議において東條陸相に求めたが拒否にあい、この日政権を投げ出し総辞職を決める。

 十月十八日、東條英機内閣が発足。天皇は、「虎穴にいらずんば虎子を得ずだね」と漏らす。天皇は、かたくなまで天皇に忠実な東條英機に開戦を止める最後の期待をかけていた。しかし、東条は「戦争遂行こそ天皇をお救いする道」と信じていた。

 十一月一日、大本営政府連絡会議にて「帝国国策遂行要領(第二次)」を審議し、米英蘭との開戦が決定される。この要領の内容は、
①対米交渉が十二月一日までに成立しなければ武力発動、時期は十二月初旬 
 ②『対米交渉要領』に基づいては対米交渉を継続する
であった。この『対米交渉要領』は米英蘭に対して強硬な内容で、とうてい妥協点を見出せるものではなかった。十一月初旬に野村駐米大使からハル国務長官に提示されたが、米国は全く関心を示さなかった。同日、永野修身海軍軍令部総長が大本営政府連絡会議の席上で対米英戦の見通しについて、「開戦後二年間は確算あり」だが、「三年以降は予談を許さず」と発言する。

 十一月五日、御前会議が開催され、「帝国国策遂行要領(第二次案)」「対米交渉要領」「陸海軍総合作戦計画」「開戦時期」について最終決定する。同日、大本営政府連絡会議が連合艦隊司令長官に対米英蘭作戦準備を命令する。
 十一月十五日、大本営政府連絡会議が「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」を決定する。内容は、「速やかに極東における敵の根拠地・南方資源地域を占領して、長期にわたり自存自衛の態勢を確立する。積極的に蒋介石政権を倒し、ドイツ・イタリアと提携して英国を屈服させる。これにより米国の戦意を失わせ、講和会議に持ち込む」というものである。ドイツが全ヨーロッパを抑えることが大前提となっていたのだが、すでにイギリスとソ連をのぞいてほとんど制圧していた。軍の首脳たちが対米英に強気で出ることができたのも、ドイツの勝利に乗じて講和に持ち込めばいいという気持ちがどこかにあったからである。そして、驚くことに太平洋戦争開戦時の具体的な戦争指導計画はこれしかなかった。

 十一月二十六日、第一航空艦隊がハワイ真珠湾を攻撃するために単冠湾を出港する。真珠湾を攻撃するというアイデアは、数年前から山本五十六の頭の中にできていた。そのアイデアを具体化し出したのは、この年の一月七日と言われている。海軍罫紙九枚に「戦備ニ関スル意見」と題して及川古志郎海軍大臣に真珠湾攻撃の構想を送っている。また同時に、書簡便箋三枚に計画概要を書いて参謀長の大西瀧治郎に渡している。大西は、山本長官の奇抜すぎる作戦について第十一航空艦隊先任参謀の前田孝成少佐と第一航空戦隊参謀源田実少佐から意見を求める。源田は、さらにこれを草案としてまとめあげ、大西を通じて山本まで戻ってきたのが三月である。連合艦隊では、この草案を四つの予備研究グループで検討し、先任参謀の黒島亀人大佐が最終案として練り上げた。この日から黒島のたてた連合艦隊戦策に基づいてすべてが動き出す。

 飛行操縦練習生 十一月二十七日、米国のハル国務長官が、日本から示された「対米交渉要領(乙案)」に拒否の回答をするとともに、米国の立場を示した「ハルノート」を提案する。「ハルノート」の内容は、先に示した「ハル四原則」をもとにしたものでより具体的な提案となっていた。日本側にはとうてい受け入れる余地のないもので、満州事変以降獲得してきた権益を放棄する内容となっていた。大本営政府連絡会議は、「ハルノート」をもって米国の最後通牒と受け取り、以後は開戦準備の事務手続きに入っていくことになる。
 ところで秦郁彦は『昭和史20の争点』の中で、この乙案を米国は事前に暗号解読によって知っており、その文書を翻訳するときに誤訳が行われたと指摘している。乙案は米国から建設的な意見が出されたときには最大限の譲歩を示す「最後的譲歩案」と表現されていたのだが、米国側の暗号解読班は「最後通牒」と誤訳してしまう。米国にも暫定的協定案を示す用意があったのだが、「最後通牒」となれば強硬策を示すしかないとされたというのだ。このことにより、両国が歩み寄る最後の機会が失われてしまう。当時、暗号解読を行なう翻訳官に日系人を用いることをさけ、あやしげな日本語能力しかない翻訳官を用いていたためとされている。


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