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上越立ち止まりスポット15(無印〜御館公園)

上越市(直江津)に「無印」が出店し大賑わいである。世界最大規模というのと地域密着型という新しいコンセプトでなかなか面白い。そこからすぐ近くに御館公園がある。歩いて7分・・・てとこかな。

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実は歴史的な場所。上杉謙信が関東管領・上杉憲政の居館として建設した関東管領館・・・で、「御館」となった。山城である春日山で政務を行うのは難しい。この地が政庁だったのだ。古地図を見ると、この場所を中心に国が広がっている。上杉謙信がもう少し生きていたらという歴史if話があるが、そうなるとここは霞ヶ関だったな。

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残念ながら、上杉謙信は京都上洛目前に脳溢血で急死。その後、上杉景勝と上杉景虎による跡目争い「御館の乱」(1578)が起きた。上杉謙信には子供がなく、姉の子の景勝を養子とした。また、小田原の北条氏康の七男、三郎も謙信の姪(上杉景勝の姉)を娶って景虎という名をもらい、上杉謙信の養子になる。この二人の養子がそれぞれを押す豪族によって担がれて戦うことになった。
景勝は春日山に、景虎は御館にそれぞれ陣を貼り、豪族も二つにわかれて戦った。小田原城主、北条氏政は弟景虎を救うため、甲斐の武田勝頼に出陣を促す。氏政の妹をめとっている勝頼は、春日山城付近の木田に兵を進め、約2ヶ月ここで陣をはる。景虎の兄氏輝、氏邦は9月に景虎救援のため関東軍を率いて南魚沼に進出・樺野沢城(塩沢)を根拠地にする。1579年2月1日、景勝は大軍を府中(直江津)に進め、御館を攻撃する。両軍は府中一帯で激戦を展開。安国寺、至徳寺などの名刹が灰燼と帰す。同年3月17日、御館は景勝軍の猛攻撃をささえきれず、落城。前関東管領上杉憲政は、景虎の長男道満丸を連れて和議仲裁のため春日山城に向かう。その途中。四ツ屋(大潟区?)で景勝の兵に惨殺される。景虎は残兵を率いて生家小田原城をめざして逃亡の途中、鮫ヶ尾城(妙高市新井)に入る。しかし、景勝軍に包囲され、主君の堀江宗親の謀反にあって3月24日自刃した。その後も越後各地で戦いが続いたという。(上越ふるさと事典から引用)・・・・・この場所が舞台だ。

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昭和39年に県教委、直江津市教委の合同発掘調査が行われ、遺構や遺物が発見された。「3年に渡った調査の結果、全国でも屈指の館城であったことがわかる。種子島(鉄砲)の銃弾、武具、刀剣、銭貨、陶磁器、中世磁器、漆器、曲物、かんざし、べっこう櫛などの高価な遺物が出土し、上杉と京都の交流がわかった。また、銃弾や白骨が出てきて戦闘の激しさを物語っている」と「上越の史跡と人物」(花ケ前盛明、上越タイムス、2002)に書かれている。その後、住宅地になった。それまで葦原のようになっていたのを覚えている。

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豊臣秀吉の行なった太閤検地で使った図面で残っているのは2枚しかないそうだ。そのうちの1枚は上越市の関川から東の方、三和区あたりのものだ。今は、広い田園風景になっているが、その古い図面を見るとたくさんの集落(ムラ)があるのがわかる。おそらく広大な越後国をつくっていた一部なのだ。越の国はその頃は日本でも有数のおおきな国だった。もっているポテンシャルの大きさを怖れ、徳川幕府は、上杉を会津・米沢への移封、江戸城に匹敵する大きさの福島城の閉鎖、さまざまな機会に縮小してきた。そして、越の国の政庁がここにあった。

歴史の大舞台だったこの地も今は公園の一角に看板があるのみ。



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