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飛行機の本#35『海兵隊コルセア戦記』_BAA BAA BLACK SHEEP(グレゴリー・ボイントン)

グレゴリー・ボイントンは、アメリカが正式に参戦する前の1941年に義勇軍フライング・タイガーに参加し、中国・ビルマ戦線で戦った。アメリカ参戦後に、海兵隊に復帰し中隊長として南太平洋戦線で戦った。中国戦線での乗機はカーチスP40、海兵隊にもどってからはコルセアで零戦との戦いを続け28機撃墜をマークしている。たいへん冒険心に満ちていて、好んで戦いの場に身を置きたいと思った人間のようだ。だが、個人的な伎倆よりも飛行機中隊長として編隊空戦を指揮したことが評価される。

零戦は、格闘性能が世界最高峰に達した飛行機であった。格闘戦は第一次世界大戦から続く古典的な戦闘機の戦術であり、パイロットの腕前がものをいう。そのパイロットの思うがままにあやつることができたのが零戦といえる。しかし、エンジンのパワーアップにより飛行機のスピードが500km/hを超えるようになると、ひらりひらりと後ろに回り込む格闘戦よりも一撃離脱(ヒットエンドラン)の戦いに変わってきた。巴戦で後ろに回り込むよりもスピードを生かして発見ー攻撃ー離脱の戦いになったのだ。射線を増やし、攻撃離脱をしやすくするため編隊で飛ぶことを原則とする。コルセアは、このような戦法をとるのに適した機体だった。

中国戦線での戦いの経験をもつボイントンは、若いパイロットに一撃離脱の編隊飛行を仕込んで戦いにのぞむ。初戦で日本軍にコテンパンにされたあと、アメリカ軍も大学生の志願兵を主とする間に合わせの飛行隊を前線に送り込む。最新鋭のコルセアをやっととばせるようになっただけで歴戦のパイロットのいる日本の零戦隊と戦わねばならなかった。次第にアメリカの一撃離脱が効果をあげ、日本のベテランパイロットが落とされるようになる。日本側ではあらたな補充がままならない。アメリカではボランティアとして若者が志願してパイロットがどんどん養成され編隊空戦で鍛えられる。先輩とペアで動くので自然に技が身につく。日本海軍では当初、先輩から技は盗めということでスキルの伝達はなかったと元零戦パイロットだった笠井智一氏は証言している。ただし、菅野直中尉などの若い世代の隊長が編隊空戦を取り入れ、効果をあげるようになる。菅野の隊でもっとも編隊空戦、一撃離脱で戦果をあげたのが杉田庄一上飛曹だった。笠井氏は、杉田の2番機として徹底的に鍛えられたという。

さて、ボイントンは1944年1月3日にブーゲンビル島を離陸、ラバウル上空で零戦に撃墜される。漂流中に日本の潜水艦に救助され捕虜となり、終戦まで日本の収容所で過ごす。捕虜として過ごしているときに殴られたり暴行をうけたりもしたが、親切な扱いもうけている。とりわけ女性は親切であったと書いている。戦後は、ヒーローとして帰国するが、アルコール依存症になり、かなり苦労したようだ。この本はアルコール依存症を脱して、生活も安定した晩年に書かれている。1989年に死去している。

コルセアに関するnote
チャンス・ヴォートF4Uコルセア(1940
)




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