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杉田庄一物語その7 第一部「小蒲生田」バスに乗り遅れるな

 昭和十五年(1940)五月、ドイツの電撃作戦によりフランスが降伏する。英国本土も爆撃を受けるようになり、ドイツ軍は、飛ぶ鳥落とす勢いであった。日本では「バスに乗り遅れるな」とドイツとの同盟を求める世論が沸騰していた。九月に入ると日本軍が仏領インドシナ半島北部に進駐する。これを受けて米国が屑鉄の対日輸出を禁止した。
 経済の圧迫が戦争の底流にあるのは、昔も今も変わらない。自国の経済を守るための各国の政策が他国の経済を押しつぶすことになり、外交が破綻し、軍事の発動となる。

 九月十二日、近衛首相が山本連合艦隊司令長官に会っている。このとき、「万一日米交渉がまとまらなかった場合、海軍の見通しはどうですか?」という近衛の問いに、山本は「是非やれと言われれば初め一年や一年半の間は存分に暴れてご覧に入れる。然しながら、二年三年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極力御努力願いたい」と答えている。山本の意図は後半にあるのだが、自分の決断を支える言葉が欲しかった近衛は、前半の部分をことさら頼りにしてしまう。

 九月二十七日、日独伊三国同盟がベルリンにて締結されることになる。このことを受けて及川古志郎海軍大臣が海軍首脳を招集する。山本は及川に質問した。「心配に耐えぬところがありますので、それをおたずねしたい。昨年八月まで私が次官を勤めていた当時の企画院の物動計画によれば、その八割までが英米勢力圏の資材でまかなわれることになっていたが、今回三国同盟を結ぶとすれば、必然的にこれを失うはずであるが、その不足を補うため、どういう物動計画の切り替えをやられたか。この点を明確にし、連合艦隊の長官としての私に安心を与えていただきたい」

 このときの及川の答えは、「いろいろご意見もありましょうが、先に申し上げた通りの次第ですから、このさいは三国同盟にご賛同願いたい」ということだった。山本は激怒し、会議のあとで及川海相を捕まえて激しく追求する。及川海相は、「やむを得なかったのだ。勘弁してくれ」と許しを乞うが、山本は「勘弁ですむか」とさらに詰め寄る一幕があった。

 山本の気持ちとは裏腹に国民はドイツ崇拝、ヒトラー礼賛に沸いた。「ドイツは強い、ドイツと手を組めば米英恐るるに足らず」という世論が一気に形成されていった。いわゆる「バスに乗り遅れるな」という言葉が日本中に流れていったのだ。

 十月十二日、米国大統領ルーズベルトが、次のような極東政策を発表した。(
1 対英援助と米国の防衛力を強化する
2 日本に対して米国の権利と原則を主張し、経済圧迫をつづけ、中国を援助する
3 米国は太平洋において優勢であり、かつ兵力を増強していることを日本に理解させる
4 米国は武力に訴えることはないという印象を日本にあたえないようにするとともに、日本とは極力衝突を避け協定のための門戸を開いておく
 同時に米国政府は、極東地域からの米国人即時引き揚げを勧告する。対米関係の悪化は明らかだった。

 欧州ではすでにナチスドイツが破竹の進撃を続けている。時代は確実に日米の対立に向かっていく。

※ 杉田の話が出てこなかったが、なぜ日本が米国と戦争をおこさねばならなかったのかという、最後の砦の経緯を知ることは重要と考えて、独立して項をおこした。特に、山本の本音が及川に対する憤りに現れている。

参考


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