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上越立ち止まりスポット18浜善光寺(十念寺)

我が家のお盆は浜善光寺(十念寺)に墓参りに行く。日本海がすぐ裏にあるお寺だ。直江津中等学校の裏あたりの昔の街道沿いにある。

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この浜善光寺の創建は驚くほど古い。聖武天皇の天平年間(729年〜749年)に行基が越後下向の折に創建されたというのだ。正式名称は信州善光寺大本願別院不捨山光明院十念寺。南無阿弥陀仏と十回念仏を唱えるので十念寺。

上杉謙信が川中島の戦いの際、信濃国善光寺の本尊を甲斐国の武田信玄から守るために持って帰りこの寺に納めた。それから「浜善光寺」、「浜の善光寺」と呼ばれるようになった。信濃国にある善光寺に対して日本海近くの海岸部にあることから浜善光寺と呼ばれる。

一方、武田信玄も甲斐の国に御本尊を持ち帰り善光寺を建立したと言われている。山梨県甲府市善光寺にある浄土宗の寺院で甲斐善光寺、甲州善光寺、甲府善光寺と呼ばれている。

本尊の流転については諸説あり、wikiにも下記のように書かれている。
景虎は第三次川中島の戦いの終結後、信濃善光寺・大御堂本尊の善光寺如来や寺宝を越後へ持ち帰り、永禄初年頃には直江津(新潟県上越市)に如来堂を建設した。これにより直江津は信濃からの居住者が居住し、町場として発展している。なお、景虎が越後へ持ち帰った善光寺如来は本尊像ではなく、本尊像は旭山城へ籠城した栗田氏により避難されていたとも考えられている。これに対し、晴信は弘治3年2月15日に信濃善光寺北西の水内郡・葛山城(長野市)を落とし一帯を勢力下に置くと、善光寺別当の栗田寛久に命じ信濃善光寺本尊の阿弥陀如来像や寺宝を甲斐国甲府へ移転させ、栗田氏らも甲府へ転居した。善光寺別当栗田氏も武田方と上杉方に分裂している。晴信は信濃善光寺本尊の善光寺如来を信濃佐久郡祢津に移すと、三年後の永禄元年に甲斐へ持ち帰っている。甲州市塩山・向嶽寺の『塩山向嶽庵小年代記』・永禄元年(1558年)条に拠れば、同年9月15日に善光寺如来は甲斐に到着し、甲斐の領民は狂喜したという。また、『王代記』では善光寺如来は同年9月25日に到着したとし、同年10月3日から板垣郷で普請が開始されたことを記している。

なにやら由緒を掘り起こすととんでもないお寺なのだ。

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この近くの砂丘(善光寺浜)に自動車学校を作るための削平が行われたときにざくざくと縄文時代の土器石器が出土した。そのため発掘調査を行うと縄文前期の貼石遺構が現れ、土師器や須恵器も出てきた。善光寺浜遺跡と名付けられた。

善光寺浜遺跡の東南に中世後半の五輪塔・宝きょう印塔群があった。完全な形のものが10数基、部分も多数あったという。現在一部が善光寺の中に置かれている。

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私が小学校に入る前、直江津中学校の横にあった家からときどき母親に連れてこられた。松林を抜けて砂丘が広がる横に昔の街道があり、この浜善光寺で一休み。さらに国分寺まで行って昆虫採集をし、茶屋でかき氷かところてんを食べたという思い出がある。

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20年くらい前に父が墓地を買いたいと言い出した。分家である我が家は墓がない。父は前から決めていたようで、この浜善光寺に墓地を求めた。墓地を買うにあたって浄土宗の檀家にさせてもらった。父がこの地に決めた理由は、海に近いということだった。父は平成20年に亡くなった。母は平成28年に亡くなった。今は、二人で海風を感じ、波の音を聞いているのだろう。

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