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上越立ち止まりスポット29金谷山公園その1

いつも金谷山の横を通っているのだけれど、気になる金谷山に行ってみた。入り口にある観光案内・・・いろいろある。

この案内の場所から山頂に向けてあがっていくとたくさんの石碑がある

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儒学者倉石侗窩(どうか)の碑。文化12年8月17日生まれ。越後(えちご)(新潟県)高田の人。江戸で安積艮斎(あさか-ごんさい)にまなぶ。帰郷して高田藩につかえ,侍講,藩校修道館の督学となる。戊辰(ぼしん)戦争に際して藩論を勤王にまとめた。明治9年3月9日死去。62歳。名は成憲。字(あざな)は子緝。通称は典太。著作に「春秋左氏伝集説」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

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赤井景韶の墓。赤井景韶は自由民権運動の急進的な活動家。父は高田藩士赤井喜平。中頸城郡高田木築町出身。幼名、乙五郎。赤井家は高田藩の下級士族で、父喜平は明治元年(1868)の戊辰戦争で戦死し、母子家庭となった。西南戦争では、神奈川県巡査として戦地に赴く。のち故郷の越後に帰り代言人を開業。高田に自由党が結成されるや入党して党務に尽力。明治初期、自由民権思想の反政府運動は、明治16年(1883)3月「高田事件」を起こした。赤井景韶は、これに連座、内乱罪で収監、重禁獄9年の実刑となる。裁判官は玉乃世履であった。その後明治17年(1884)に松田克之とともに脱獄するも、松田は程なく逮捕され、赤井は逃亡途中で人力車夫を殺害し警察は名誉にかけての大捜査網を敷いた。世間では、逮捕地を賭けるといったことが行われたという。山田賢治という偽名で逃げ回っていたが、9月10日に大井川橋際で逮捕となる。明治18年7月27日死刑となる。辞世の句は「青葉にて散るともよしや楓葉のあかき心は知る人ぞ知る」。遺骸は、小島周治と実弟新村金十郎が引き取り谷中墓地に葬った。ということだ。

高田事件は、自由党の取締りを強化するため官憲が党内に送り込んだスパイによるデッチ上げ事件だったという。高田事件を偲ぶ人々によって「鉄窓会」ができ、東京天王寺に葬られていた赤井の遺骨を1907年に金谷山に分骨した。

金谷山公園は高田の街中から歩いてこれる丘陵公園。日本スキー発祥の地とされm男山スキー場と女山スキー場とジャンプ台がある。ボブスレー場もあったはずだが、どうなったのかわからない。高校生の頃、雪が降ると金谷山でスキー授業があった。自衛隊もスキーを履いた訓練をしていた。スキー金具がまだカンダハというバネでパチンと止めるものだった。

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レルヒ像もジャンプ台の横にある。

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日本スキー発祥記念館があり、このような石碑も。

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ここから米山もよく見える。対米館という旅館も。

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まだ、この道路沿いには高田事件の碑や薩摩墓地、小田嶽夫の碑などがある。