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杉田庄一ノート61 昭和19年4月25日「あんなもん空戦じゃない」

 昭和19年の4月25日、初めてグアム基地に空襲警報が発令された。いよいよ敵が戦線を近づけてきたのだ。一月後にはじまるマリアナ諸島上陸作戦のための偵察行動がはじまった。警報用の空き缶が連打され、第一飛行場戦闘指揮所に赤い旗があげられた。すぐに待機していた零戦隊が邀撃にあがる。この日の搭乗割に杉田区隊が入っていた。笠井氏は杉田の四番機として邀撃戦に加わる。笠井氏の初陣だった。

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 敵の来る前に高度をとるため全機全速で上昇する。先頭の杉田兵曹は、上昇しながらも笠井氏ら編隊列機の動きをたびたび振り返って確かめる。このとき笠井氏は、自分達を振り返って確かめてくれる杉田に強い信頼感を抱いた。

 重爆撃機コンソリデーテッドB-24が4機編隊で近づいてきた。笠井氏は、初めて見る重爆撃機であったが気持ちは比較的落ち着いていて、それはおそらく日頃の厳しい訓練による賜物だと感じていた。B-24は水源地の近くに爆弾を投下するが、日本軍には被害がなかった。杉田は「ハナレルナ、ツイテコイ」の手信号を送ってB-24に迫る。笠井氏ら列機は、杉田についてB-24に後上方から接近していく。OPL(光学式照準器)の中の敵機はみるみる大きくなっていく。笠井氏は「とにかく撃てぃ!」と二十ミリ機銃を連射しながらつっこんでいった。初めての交戦である。すさまじい弾幕の中、右手で操縦桿を操作し、左手でスロットルレバーについている発射把柄を握って射撃をする。しかし、まったく当たらなかった。落ち着いていると自分では思っていても緊張と興奮で敵への突っ込みがまだ甘かったのだ。

 一時離脱し、「今度はもう少し近づいて撃ってやる」と再接近する。一回目と同様に、弾丸はむなしく放物線を描いて落ちていく。OPLからはみ出るほどの大きな爆撃機に対して、十分近づいたと思っていても距離の測定が短かった。訓練では味方の零戦が相手であり、実際の敵重爆撃機の大きさから目測を見誤っていたのだ。杉田からは「三十メートルまで接近しろ!」といつも言われていたのに、後から思うと百メートル以上離れていたのだ。二十ミリ機銃の弾倉にある五、六十発の弾丸はすぐに撃ち尽くしてしまった。仕方なく、基地に帰投する。

 「笠井来い!」と、杉田は笠井氏を呼び出す。
 「お前ら、今日はいままで習ったとおりにできたか!」
 「はい!」
 「ばかもん!
  お前らみたいな攻撃をしていたら、弾は当たらんぞ!
  もっと接近しないと当たらんぞ!
  あんなもん空戦じゃない!
  墜とそうと思うんだったらもっと接近して撃て!
  あんな射撃するくらいなら弾がもったいないから撃つな!
  あんな撃ち方してたら弾はいくらあっても足りんぞ!
  お前らみたいな新米が敵を撃ち落とせるわけがない!
  墜とすつもりならとにかく敵にぶつかるまで接近せい!
  ぶつかるまで接近してから弾を撃て!」
 ふだん拳をあげることのない杉田が血相を変えて激しく怒った。しかし、この教えは笠井氏の骨の髄にまで染みるものだった。

 日本海軍機に積載されていた20mm機銃は当たると威力があるが初速が遅く、弾丸は放物線を描いて飛んでいく。一発必中の日本軍の文化をひきずっている銃である。したがって、十分に接近していないと命中させることができなかった。逆に、アメリカ軍機の採用していた12.7mm機銃は、初速が速くまっすぐ飛ぶ。威力が少ない分、多銃にして命中率を高め、敵に多くの打撃を与えようという発想である。

 杉田は日頃から笠井氏たちに「グラマンなら二十ミリを五、六発で落とせる。ただし接近して撃て」と厳しく教育していた。敵をやらねば、自分がやられる世界である。敵の懐に入るまで接近し必中弾を与えなければ、自分が撃たれることになるのだ。

 グアム基地へのB24の攻撃に笠井氏は杉田とともに二回邀撃にあがったが、とうとう一発も当てることができず杉田に殴られた。


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 今回のnoteは、以前書いた『杉田庄一ノート28:昭和19年4月<杉田との出会い>〜「最後の紫電改パイロット」その1』に、内容は重なる。時系列未整理のまま書いてきたので、これでほぼ戦時中の杉田のおもな動静がつながった。今後は、隙間を埋める資料(特に菅野大尉との関係)や戦前の社会の動きと杉田を追っていこうと思う。

 

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