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杉田庄一ノート28:昭和19年4月<杉田との出会い>〜「最後の紫電改パイロット」その1

 「最後の紫電改パイロット」は、今年(2021年)の1月に95歳で亡くなった笠井智一さんの書いた戦記である。笠井さんの講演はYouTubeでもいくつか残されていて肉声での語りを聴けるのだが、記述されたものはやはり伝える力が違う。発行は昨年(2020年)であり、亡くなる前にこの本を残していってくれたと言えよう。

 笠井さんは、予科練から前線(グアム)に出てすぐに杉田の列機になり、鹿屋基地で杉田が撃墜される日までその任を務めた。杉田を一番よく知る方と言えよう。コロナがなければ、会いに行って話を聞きたいと思っていたが、その前に亡くなってしまった。

 笠井智一さんは、大正15年3月8日に兵庫県多紀郡(現丹波篠山市)の福住村藤ノ木で生まれた。私の父が大正15年4月19日なので、ほぼ同じだ。旧制中学を出て甲種予科練を受験し、昭和17年4月、第10期として採用される(昭和12年からの予科練は、旧制中学卒業資格で受験する甲種予科練、高等小学校卒業資格で受験する乙種予科練、水兵から転科する丙種予科練の3つの種類がある)。甲種予科練10期(甲飛10期)は、搭乗員大量養成時期にあたり1097人が採用された。予科練に入るには何十倍もの倍率を突破して入らねばならず、学校の首席かつ運動神経抜群の者が集まった。毎日、厳しい訓練と罰直(バッターという棍棒で尻を叩かれる)の日々を過ごし、昭和18年5月、予定を4ヶ月繰り上げで卒業する。ミッドウェイ海戦や山本五十六大将の戦死などが直前にあり、飛行機搭乗員の不足が一気に深刻化したためであろう。

 予科練卒業後は、千歳空で飛行練習教程を受け、徳島空で戦闘機操縦専修として96艦戦と零戦で訓練を受ける。笠井さんの期は、かなり短縮されたとはいえこれまでと同様の教程を経て零戦の操縦ができるようになって前線に出される。その後の期は、練習機を10時間ほど飛んだだけで前線に出され、特攻を命ぜられた。さらに、その後の期は飛行機の操縦訓練さえ受けさせられずモーターボートによる海上特攻などの訓練をしただけの者もいた。

 笠井さんたち戦闘機操縦課程の訓練生は、徳島空での訓練途中で切り上げられて、松山基地の263空(豹部隊)に配属される。前線帰りの先輩の搭乗員(飛行兵)がいるが、笠井さんたち甲飛は制度上進級が早くすでに下士官になっていた。新米でありながら階級が上で、座りが悪かったらしい。「訓練が終わり、操縦席から降りてきた搭乗員たちの階級を見ると、その多くが飛行兵長や上等飛行兵だった。一般の水兵から予科練に半年行って飛練を卒業した『丙飛』の人たちだ(杉田も丙飛だった)。私たちは制度上、11月1日に彼らよりも先に下士官になっていたが、とうぜん何をやっても彼らのようにはできず、『下士官のくせに何もできず、ぶらぶらしやがって!』と事あるごとに怒られた。彼らの言うとおり、われわれは何もできないから彼らの靴を磨いたり、洗濯したり。食事の用意をしたりした。」「当時『星の数より飯の数』あるいは『味噌汁の数でこい』などの言葉があったように、階級の上下よりもどれだけ軍隊で飯を食べてきたかがものを言った。」

 この甲種予科練の制度は、士官養成の海軍兵学校と兵から搭乗員になる旧操縦練習生の間に位置し、中途半端であったため予科練生の間で軋轢を生んだ。もともと操縦練習生は、兵から叩き上げ経験年数を積んでようやく下士官、そして准士官、特務士官になる。甲種予科練生は兵を短期間で進級し、いきなり下士官になった。ちなみに甲種予科練卒の笠井さんが、丙種予科練卒の杉田の部下(2番機)として過ごしていた時、実戦経験でも年齢でも差があったが階級は同じ一飛曹だった。しかし、あくまでも下士官でしかなく、海軍兵学校を出た士官や大学出の予備士官とは明らかに大きな階級差があった。

グアム

 昭和19年3月、笠井さんらはマリアナ諸島での戦いに参加するためサイパンのアスリート飛行場に進出する。

3月、笠井さんら263空(豹部隊)は訓練が不十分なまま補充要員としてグアム島(当時、大宮島)に派遣される。搭乗員80数名のうち半分が甲飛10期生で、ベテランである搭乗員でも実戦経験者は1人か2人しかいなかった。零戦での離着陸や水平飛行がやっとの技量で松山基地から洋上飛行でサイパンへ行くことになった。射撃訓練もまともにできていない状態で前線に出されるのは海軍でも初めてであった。それほど飛行機操縦の搭乗員が不足していた。第1陣の先発部隊は、到着早々に撃墜あるいは地上破壊で全機壊滅する。笠井さんらの第2陣も17〜8機で出発するが途中殉職者も出しながらようやく島にたどり着いたのが12~3機だった。戦う前に飛行機を飛ばすこと事態がやっとという状態であったため他隊の邪魔にならぬよう、さらにグアム島の飛行場に追い出され訓練を行うことになる。そして、そこで笠井さんは杉田に出会い、列機として指導をうけることになる。この出会いがなければ、あっというまに戦死していたに違いないと笠井さんは戦後何度も述懐している。263空に配属となった甲飛10期予科練生は笠井さんも含めて42名であったが、終戦まで生き延びたのは2名であった。

 さて、グアム基地に配属され、やる気だけは満々の笠井さんらの前に杉田が現れる。以前、「杉田庄一ノート:『三四三空隊史』その1」に笠井さんの記述を載せたが、ここではあらためて「最後の紫電改パイロット」での記述を引用する。

 「昭和十九(一九四四)年四月末の転勤時期、グアム島に杉田庄ー兵曹といぅ古い搭乗員が、内地からダグラスDC3輸送機に乗って転勤してきた。(石野註:杉田はまだ19歳だったのだが…)海軍屈指の擊墜王として有名な杉田兵曹は私よりニつ年上で、当時の階級はー飛曹。 新潟県出身、昭和十五年に志願兵徴募で水兵として入隊し、途中で飛行兵に転科した丙種飛行予科練習生(以下、丙飛)三期のベテラン搭乗員だ。前年の昭和十八年四月、 ブーゲンビル上空で山本五十六司令長官の搭乗機が撃墜されたときに護衛をつとめていた精鋭六機のうちのー人で、戦後に柳田邦男のノンフィクションの名作『零戦燃ゆ』でも紹介された人だ。
 輸送機を降りた杉田兵曹はライフジャケットを肩にかけ、同期ばかりとなった搭乗員が集合した待機所の天幕に向かってとことこ歩いてきた。杉田一飛曹は玉井司令に対して、
『杉田一飛曹、転勤で参りました』と片手拝みするような『宣候(ようそろ)型』の敬礼をしながら転勤報告をした。司令はわれわれ搭乘員に、『本日着任の杉田一等飛行兵曹を紹介する』と言った。台上の彼の転勤挨拶は、
『おう、俺が杉田だ。何も言うことない。編隊にしっかりついて来い!』という簡単なもので終わった。

 ずんぐり中背で顔はやけどの跡も生々しく、手を見たら左手は包をして、右手は 白く (青く)なっている。見るからに精悍な下士官搭乗員だ。
 昭和十八年八月、敵コルセアに墜とされて負傷、治療のため内地送還となり、ようやく飛行機に乗れる体になって長崎大村の航空隊で教員をしていたところ、命令によりグアムに転勤してきたのだった。だが、彼がどういう経歴の搭乗員であるのか司令以外はそのとき、だれも知らなかった。司令は以前ラバウルの第二〇四海軍航空隊にいたので、輝かしい個人記録を持つ杉田一飛曹のことはよく知っていたが、われわれにはいっさい彼のことを話さなかつた。
 同期たちは彼を見た目で判断し、『顔はやけどしとるし、なんや怖そうなやっちゃで』と、みなびくびくした。すぐに新しい編成が発表になり、私は杉田一飛曹の三番機に指名された。元米軍の平屋の兵舎に帰ったあとは、『ああ、やれやれ、これでいつ殴られるかわからん……』と心中はおだやかではなかった。(笠井さんはこれまで予科練から前線に来るまでいやというほど下士官に鉄拳での修正をうけていた…)

 夕方となり、兵舎の中で、
『きよう、編成替えがあった俺の愛する列機こーい!』と杉田兵曹が呼んでいる。 『え?杉田一飛曹がさっそく俺たちを呼んどるぞ。挨拶代わりに一発ぶん殴られる かもわからん……』などと不安に思いつつも、しかたなく列機の三人で恐る恐る行ってみた。すると、長い食卓の上に晩飯が準備してあって、そこに日本酒の一升瓶がぼんと置いてある。杉田一飛曹はこうロを開いた。『官等級氏名、名乗れ!』 私は敬礼しながら、『甲飛十期生出身二等兵曹、笠井智 一!』 杉田一飛曹は小さい声で、『よし、そうか。お前がきょうから俺の三番機か』と言い、つづいて大きい声で、 『俺の三番機になったからには酒のどんぶりで一杯やニ杯飲まんようではグラマンには勝てん!飲めえ!』

 私はそれまで酒を飲んだこともない。そもそも一升瓶はどうしたのかと尋ねると杉田ー飛曹は事も無く、『司令のところからもらってきた』とのことだった。この先輩大丈夫かいな、えらい先輩についたもんやなあと、ほかの列機とともに途方に暮れながら椅子に座って酒を飲まされた。さらに、『おい、お前ら、戦地というのはそんなに簡単なもんじゃないぞ。お前らみたいなやつが敵を墜とそうなんて思い上がっていたら、みな墜とされてしまうぞ!墜とさなくてもいいから、とにかく俺についてこい!』と、注意された。 あくる日も、そのあくる日も、晚飯のときには毎晚飲まされた。酒がなくなったら、 『おう、待っとけえ!』と言って自分一人でどこかへ出ていく。しばらくして、『おいっ、だれか来たぞ!』と言うと、搭乗員節を声高らかに歌いながら一升瓶をかつぎ、細い目をさらに細くして得意満面の杉田一飛曹が帰ってくる。『ソロモン群島やガダルカナルへ今日も空襲大編隊、翼の二十粍雄叫びあげりゃ、墜ちるグラマン、シコルスキ〜シコルスキ、っと』
文字通り百戦錬磨の杉田兵曹は、操縦も射撃もとてもうまい人だった。グアムでは、 内地でほとんどできなかった操縦訓練を杉田兵曹から存分に教わった。単機訓練では、 杉田一番機がする同じ格好、つまり直角に曲がったら同じように曲がるというふうに、真後ろについて航跡をなぞって飛ぶ追躡運動を通して、空戦に使える難しい空中運動を教わった。「捻り込み」とよばれた、斜め宙返りの頂点で操縦桿とフットバーを操作し、捻りを入れることによって宙返りの半径を極限に小さくする方法などは、言葉では絶対に教育できない操作だ。こんなことも杉田兵曹からグアムでみっちり仕込まれた。なお、追躡運動は編隊を組むための訓練にもなった。
 編隊行動では列機はみな、一番機がやることをつねに見ておかなくてはならない。 一番機が気流で震えるようなことがあれば、同じく震わせる、そのくらい一番機を見ておかなくてはならない。動作がまばたき一瞬遅れただけで、編隊は大きく崩れてしまうからだ。編隊では機と機の距離の取り方がなかなか難しいが、そのためのスロットルの加減の秘訣のようなこともすベて具体的に杉田兵曹に教わった。じつは空戦のやり方や操縦技術についてこと細かく教育してくれる先輩は海軍には あまりいなかった。職人気質のような『見て覚えろ、自分で工夫しろ』というタイプ の人が多かった。しかし、杉田兵曹は違った。ラバウルで数多くの空戦を経験し、生き抜いて実績を上げた杉田兵曹ならではの空戦の勝ち方、生き残り方の要諦をきわめて具体的に示してくれた。

 たとえば、『P38に出会ったら、急降下で逃げろ。敵はかならず後を追ってくる。高度ニ千メートルで引き起こして垂直面の格闘戦に持ち込め。低空での格關なら、零戦が勝てる』『敵より先に相手を見つけろ。敵より上空に占位し、太陽を背にして優位な戦いに持ち込め』『前は三〜四割、後ろは六〜七割、そのくらい後方に注意しろ』など。
 そしてもっとも重要なこととして杉田兵曹は『複数で戦う』ことを徹底して実践した。零戦が一機対一機の巴戦(ドッグファィト)を得意としていたこともあり、日本の搭乗員は単独でも敵に突っかかっていく人がいたが、そうすると敵を首尾よく墜とせたとしても、その後にこちらも別の敵機に擊墜された。連合軍はいつもかならずニ機のペアで、しかもー擊離脱で攻撃してくる。杉田兵曹は、敵が複数ならこちらもペアであり、三機であり、四機でないと対等な勝負ができないと考えていた。
 また、擊つときはとにかくぶつかるほどに肉薄して擊って、その後は深追いするな、 ということも徹底していた。おたがいが時速五百キロ以上で飛んでいるうえに、二十 ミリ機銃の弾道は真っ直ぐではなく放物線を描いて落ちていく。事実、空戦では敵機に肉薄しないと弾は絶対あたらなかった。

 杉田兵曹とは一緒に何十回と空中戦を戦った。編隊で飛んでいると、私たち列機がちゃんと自分について来ているのか、危ない目にあっていないかと杉田兵曹は何度も後ろを振り向いてくれた。そして空戦が終わって基地へ帰投するたびにわれわれを呼んで具体的な修正点を示してくれた。危ない局面も何度となくあったが、彼の力で私は空戦を生き延びられた。彼の空中戦の技量は群を抜いて優れ、真に海軍を代表する功績を残した搭乗員の一人だった。 余談だが、杉田兵曹とはこんなやりとりもあった。 .『いいか、俺(一番機)が撃ったら、何もかまわず、お前らも一緒にとにかく擊て!』 『なぜでありますか?』『それで撃墜できたら、協同擊墜になる!』 そんな後輩思いの人でもあった。」

 笠井さんに限らず、海軍の兵は先輩の兵・下士官からことあるごとに連帯責任で殴られて訓練を受けていた。あまりにひどいしごきで死んだり、半身不随になるものまでいたくらいである。殴られるのが当たり前の世界で、鬼のような形相をした杉田が現れて笠井さんはそうとうびびったと思われる。しかし、毎晩の酒盛りと具体的で実戦に即した指導、そして「おれについてこい」という心強い声がけで笠井さんは「杉田について行こう」と心から信奉する。343空でも杉田と編隊を組むことになるが、新参の田村さんが加わった時、同じように笠井さんも後輩をなぐることなく、杉田とともに指導にあたったと田村さんの手記にある。

 そんな杉田に笠井さんは初陣時殴られることになる。次のように顛末を記述している。
 「昭和十九(一九四四)年四月二十五日、グアム基地に初めて『空襲警報!』と缶を叩いて知らせが定り、第一飛行場の戦闘指揮所に赤旗があがった。この日の邀撃戦が私の初陣となった。杉田兵曹の四番機だった。
 スロットルを全開にして高度をとっていく。上昇しながら杉田兵曹がときどき後ろを振りかえってくれる。敵機に近づくと尾翼が二枚の銃爆撃機、コンソリ(コンソリデーテッドB24リベレーター)の四機編隊だった。コンソリを攻撃するのはもちろん、実物を見るのも初めてだったが、訓練の賜物だろうか気持ちは思いのほか落ち着いていた。戦後調べたら、このときの敵機は二ヶ月後にはじまるマリアナ諸島上陸作戦のため、ロスネグロス島から情報収集のために偵察にきていたようだった。グアム島の高度六、七千メートルを進入してきたコンソリは山の水源地付近に爆弾を投下していったが、わが方に被害はなかった。
 杉田一番機が「離れるな、ついてこい」の手信号を送ってくる。私は列機とともに敵の後上方から急接近してOPL(光学照準器)の中に敵機を入れ、右手で操縦桿を操作しながら左手でスロットルレバーについている二十ミリ機銃の発射把柄(レバー)を握り、「とにかく撃てい!」とばかりにパンパーンと射擊した。しかし当たらない。敵機もわれわれに十三ミリ機銃を擊ってきた。初めて経験するすさまじい弾幕だった。
 一時離脱後、ふたたび接近して、『こんどはもう少し近づいて擊ってやろう』と、 引き金を引いた。一回目と同様、引き金を少し握っただけで簡単に弾がババババッと発射されたが、曳光弾はむなしく放物線を描いて下に落ちていった。相手が大きな四発の重爆擊機だったので、自機と敵機との距離の判定が全然できていなかった。ふだん空戦訓練で見ていた相手は零戦なので、OPLに敵機がはみ出るほどに入って十分近くから擊っているつもりになっていても実際には接近できていなかった。いま思えば、百メートル以上はなれた距離から撃っていたのではないだろうか。本当に弾を当てようと思うなら、五十メートル以下まで距離をつめないと二十ミリ機銃は絶対に当たらない。杉田兵曹はいつも、『三十メートル以下まで接近せい!』とわれわれを教育した。
 こうして私が緊張しながら射撃した二十ミリ機銃弾は、かすりもせずに全弾むなしく敵の下方に落ちていった。敵機もこちらに向かって十三ミリ機銃をバンバン撃ってきた。機内に搭載する丸い弾倉にはそれぞれ五、六十発しか弾が込められていないので、ダダダダと撃ったらあっと言う間に弾はなくなった。
 弾を幣ち尽くし、基地に帰投したら 杉田兵曹が、
 『笠井こい!』と呼んでいる。
 『お前ら、今日はいままで習ったとおりにできたか!』
 『はい!』
 『ばかものー! お前らみたいな攻撃をしてたら、弾は当たらんぞ!もっと接近しないと当たらんぞ!あんなもんは空戦じゃない!墜とそうと思うんやったらもっと接近して幣て!あんな射撃するくらいなら弾がもったいないから撃つな!あんな撃ち方しとったら弾はなんぼあっても足らんやないか!お前らみたいな新米が敵を墜とせるわけがない。墜とそうと思うならとにかく敵にぶつかるまで接近せい!ぶつかるまで接近してから弾を撃 て!』と、激しい口調でこう叱られた。
 敵の機銃は戦闘機も爆擊機も十三ミリ、海軍は二十ミリ。アメリカの機銃の薬莢の長さは日本の二倍ある。そのぶん弾の初速がとにかく早く、まっすぐ飛ぶ。日本にも十三ミリはあって陸軍の戦闘機が採用していたが、薬莢は短く弾が当たっても効果が薄いので海軍はニ十ミリと七.七ミリ機銃に統ーしていた。杉田兵曹は『グラマンな ら二十ミリを五、六発で落とせる。ただし接近して擊て』と言って、われわれを教育した。
 グアムの基地では、コンソリを相手に初陣と合わせて二回邀撃に上がった。結局、 弾は一発も当たることなく、私も一発も当てられることなく、着陸してから杉田兵曹に殴られるくらいのもので終わった。」

 杉田は、自分自身の初陣の時に接近しすぎてB17に衝突し、撃墜戦果をあげている。その後も相手に猛烈な接近をすることで技量を磨いていった。ひるむと死に直結することを多くの空中戦から身をもって学んでいたのだ。笠井たちに「ひるむな、接近して撃て!」は、最大の攻撃法であり防御法であることを伝えたかったのだろう。また、編隊から離れて自分勝手に空戦をすることはそのまま相手のカモになることを厳しく伝えたかったのだろう。普段、酒の相手をさせられるだけの杉田に「思いあがるな」と本気になってなぐられ怒られた。このことは90代になっても笠井さんは忘れず、このときなぐられたことで自分が生き延びることができたと語る。

 このあと、菅野直大尉がやってくるのだが、菅野も学生のときから「デストロイヤー」というニックネームをもらうほど肉薄した攻撃を行なう性分だった。実際、菅野も戦闘中に杉田同様にB24にギリギリまで接近し、尾翼をひっかけて撃墜している。戦場にでたばかりの士官でありながら自分と同じような肉薄攻撃を行なう菅野に、杉田は強い信頼を抱き兄のように慕うことになる。




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