かわいそう

私は昔から「かわいそう」という言葉が大嫌いだ。

姉が障害児だったせいか、幼少期から周りの大人達の「可哀想に」という言葉を
よく耳にしていた。

その言葉を聞くたび、とても惨めな気持ちだった。

私は姉の事を、頑張ってるなとか、大変だよね、辛いよね、と思った事はあっても
可哀想だとは思っていなかった。

姉は姉の人生を懸命に生きている。
そのどこが可哀想なんだ。

しかも「可哀想に」と言ってくる人たちは、同情を口にするだけで
なにも力になってくれないじゃないか。
自己満の言葉なんていらない、、
「同情するなら金をくれ」まさにそう思っていた。(家なき子(ドラマ)の有名なセリフ)

私はきょうだい児(障害者をきょうだいに持つ児童)として育ち、幼少期から姉の介護をしていた為、我慢が多い環境だった。
今はシングルマザーをしていて、結婚生活の後遺症で顔面麻痺が残っている。

側からみたら、「可哀想な境遇」なのかもしれない。

だけど、実際は「独身の頃」よりも、「結婚していた時」よりも「今」が一番幸せだと感じている。
それぞれの時期はそれぞれの幸不幸があって、ずっと不幸だったわけでもない。

私は私の境遇や人生を恨みもしない。全ては本来の自分を生きる為、愛する為の経験だと思っている。

だから「自由」「楽しい」という面は、生きていく程にどんどん大きくなっていく。
勿論、時期的な変動はあるが大きな視点で見ればいつだって「過去」より「今」が「自由で楽しい」のだ。

私自身、他者に対して「可哀想」と思う事がないわけではない。

それは

「自分の満たされない部分を、相手を攻撃する事で得ようとしている人」

「自分を悲劇の主人公だと思って全てを外側のせいにしている人」

そういう人を私は可哀想だと思っている。
なにを見て「可哀想」と思うのかは人それぞれだ。

だけど面と向かって「可哀想」と言うのはいずれにしても失礼ではないか。

「可哀想」と思う相手になにかしてあげたいなら「可哀想」という言葉ではなく「愛ある行動」を贈ってあげてほしい。

そして結局はそれぞれが生きたいように生きている事を忘れてはいけない。(自省の念を込めて)

なにが「幸せ」で「不幸」かは人それぞれだ。

そして「不幸」から抜け出したいと言葉では言っていても、不幸に執着して手放したくない人もいる。
(意識してるしてないは置いといて。)

かくして、「可哀想」に対して私にできる唯一の事は、相手にも自分にも愛を贈る事しかないのだ。

今夜は満月。
「可哀想と思われていた自分」「可哀想とおもっていた相手」を手放していこう。

その先に見える景色を私は見てみたい。


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