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「コロナ渦で借りて住みたい街ランキング」1位の本厚木は(私にとって)どのような場所か?

「コロナ渦で借りて住みたい街ランキング」の1位が本厚木だったらしい。本厚木には母方の祖父母が住んでいる。個人的にとても馴染みのある場所だ。

祖父母の家は、本厚木駅からバスで10〜20分程の、ひとつの丘をそのまま切り拓いて作ったような住宅地の一角にある(地名には「台」がつく)。2階建の一戸建て住宅で、近隣には同じような区画の同じような住宅が並んでいる。これぞ郊外のニュータウンとでもいうべき均質的な景色だ。とはいえ、それぞれに異なる外壁の色や庭のしつらえからは、そこに住んでいる人たちの個性を感じることができる。ここでは皆が一国一城の主なのだ。ところで、一生のうちの人々の住み替えを例えて「住宅双六」と呼ぶが、これからみていくように,この言葉は本厚木の城主たちと深く関係している。だから、住宅双六という言葉を地理学のテキストで見かける度に、私は祖父母の家のことを思い出さずにはいられない。

図1 上田篤・久谷政樹「現代住宅双六」(朝日新聞1973年1月3日)

住宅双六が世に知られるようになったきっかけは、1973年の朝日新聞の紙面に、この言葉が上の図に添えて掲載されたことである。当時、住宅双六という言葉は、特に大都市圏居住者(ただし男性)の住み替えについてのリアリティを持っていた。すなわち、まずは10歳代後半〜20歳代前半に進学や就職のタイミングで地方圏から大都市圏の都心周辺に流入し、寮、下宿、アパートで暮らす。20歳代後半までには、結婚・出産を機に妻子と共により面積の広い賃貸住宅に引っ越す。この転居は都心から離れる外向きの移動となる。そして、30歳代以降には、子育ての都合からさらに広い住居が必要となり、郊外のアパートや、いわゆる団地を経由しながら、最終的に一戸建ての持ち家を取得する(渡辺 1978)。住宅双六とは、いわばこうした大都市圏内部の居住地移動モデルなのだ。

居住地移動モデルとしての住宅双六は、これまでに地理学をはじめ、社会学、建築学、都市計画など様々な分野で参照されてきた。では、なぜ住宅双六が重要なのか?それは、当時の住宅双六のプレーヤーが歴史的にとりわけ人口規模の大きな集団であり、彼らの住宅双六のプレイが大都市圏の郊外地域を形成したためである。冗談で遊びと言ってしまったが、住宅双六になぞらえているのは、個人の人生そのものである。

図2 日本の大都市圏における純移動数(転入者数-転出者数)の推移
資料:住民基本台帳人口移動報告

日本では、高度経済成長期と重なる戦後から1970年代前半までの期間に、地方圏から大都市圏への大量の人口移動が発生した(図2)。この移動を担ったのは、1925〜50年頃に生まれた多産少死世代である。ここには、第1次ベビーブーム世代(1946~50年頃に出生、いわゆる団塊の世代)が含まれる。就業年齢にさしかかった彼らの多くは、生まれ育った地方圏を離れて大都市圏を目指した。多産少死世代の人口規模の大きさゆえに、彼ら一人ひとりの移動の束が未曾有の数の人口移動となって表れたのである。この地域間人口移動は主に2つの側面から説明されてきた。1つは、第2次・第3次産業の急成長に伴う大都市圏での雇用拡大が農業セクターに偏った地方圏における労働力を誘引したとする経済的側面である。もう1つは、1世帯当たりの子の数が増えたため、後継ぎとなる長男を除く子が余剰労働力(潜在的他出者)として地方圏から大都市圏へと押し出されたとする人口学的側面である。

図3 東京圏における市区町村別の人口に占める30歳代の割合(1980年)
資料:国勢調査
図中の赤丸は神奈川県厚木市を示す。

いずれにせよ、多産少死世代による大都市圏への転入と、その後の定住の結果として、大都市圏の人口は急増した。中心部の既成市街地(東京圏なら23区の範囲)では、その増加人口を保持できないということもあり、大都市圏にやってきた若き多産少死世代の多くは、双六のマスを進むようにして、ライフステージの進展とともに郊外に進出した。図3に示すのは、世帯形成・拡大期にあたる30歳代の多産少子世代が、都心周辺を離れて郊外に集中する様子である。とはいえ、彼らの郊外居住のための住宅は初めから用意されていたわけではない。多産少死世代の旺盛な住宅需要が、戦後日本の住宅政策3本柱(公営住宅・公団住宅・住宅金融公庫)に下支えされた民間不動産資本による郊外住宅地(ニュータウン)の開発を促したのである。ジブリ映画の『平成狸合戦ぽんぽこ』は、このあたりの話を題材にしているので、ぜひともご覧いただきたい。ともかく、こうして受け皿が用意された大都市圏郊外では、中心部からの転出者を迎え入れることで、1960年代から1980年代にかけて顕著な人口増加がみられた。それとともに、商業・業務機能の集積地が点在するようになり、本厚木のような衛星都市の発展をみるに至った。

以上の文脈を踏まえて、多産少死世代が「上がり」の「庭つき郊外一戸建」に到着する頃がだいたい1960〜80年代だとすれば、住宅双六という言葉の登場時期は腑に落ちるだろう。

教科書的な前置きが長くなってしまったが、祖父の話に戻りたい。祖父の辿ってきた住居移動の遍歴を表すと次のようになる。

1938年に東京都文京区白山で生まれる

戦時中に疎開で宮城県仙台市へ

中学校卒業後に上京し就職、東京都文京区白山のアパート(3畳風呂無し)で一人暮らしを始める

20歳代後半に祖母と結婚し、埼玉県春日部市の公団賃貸住宅へ。そこで母が産まれる

30歳代前半に公団分譲住宅の抽選に当選し、東京都東久留米市へ。そこで叔父が産まれる

子の成長に伴い住宅が手狭となり、40歳代前半に持ち家の2次取得を決意。神奈川県厚木市の分譲地と一戸建て住宅を購入し転居。そのまま現在に至る

つまり、祖父こそが大都市圏の拡大を牽引した住宅双六のプレーヤーであり、彼にとっての「上がり」が厚木の家だったということだ。絵に描いたような、というと失礼かもしれないが、上の遍歴からは、祖父母の人生が間違いなく東京大都市圏をかたち作る一端となっていることがわかる。なんと深遠なことだろうか。

そんな祖父母を含む多産少死世代が世代交代の時期を迎えて久しい。郊外地域の形成を担った多産少死世代を郊外第一世代とするならば、彼らの子たちは郊外第二世代ということになる。今度は第1次ベビーブーム世代の子にあたる第2次ベビーブーム世代(1971~75年頃に出生、団塊ジュニア世代とも呼ばれる)がここに含まれる。地方圏を出発した第一世代とは異なり、郊外で生まれ育った第二世代にとっては、郊外が双六の「ふりだし」である。彼らがどのようにマスを進むのかは注目に値するが、どうやら郊外の実家に住み続ける者が少なくないようだ(中澤ほか 2012)。ちなみにジブリ映画の『耳をすませば』は、大都市圏郊外を舞台とした若者たちの物語なので、こちらもあわせてご覧いただければと思う。

一方で、バブル経済期および1990年代後半以降の大都市圏では、再び三度と転入超過(転入数が転出数を上回ること)が顕在化している(図2)。この2つの期間の特徴は、東京圏だけが地方圏から人口を集めていることである。いわゆる人口の「東京一極集中」である。したがって、郊外出身者が増えているとはいえ、東京圏に限っていえば、多産少死世代ほどのボリュームはないにせよ、大都市圏内部で双六をプレイする地方出身者は未だに数多く存在するのだ。しかも、特に1990年代後半以降には、地方圏出身女性の東京圏残留傾向が強まっている(地方圏出身女性が東京圏から転出しなくなっている)。『幸せ!ボンビーガール』(日本テレビ系列)に出てくる上京ガールたちは、その後東京圏の中でどのようにマスを進むのだろうか。個人的にはかなり気になる。

このように住宅双六のプレーヤーの出自は多様化している。あわせて住宅双六の盤面は複雑化しているように思われる。そんなことだから、現在の世代が住宅双六をプレイしたとしても、そこには多産少死世代が揃って郊外を開拓していったときのような、大都市圏のかたちを変えるほどのパワーはもはやないのかもしれない。しかし、そのかたちは再び変わり始めている。1990年代後半以降の大都市圏中心部では、高度経済成長期頃から減少傾向にあった人口が増加に転じている。この現象は人口の「都心回帰」と呼ばれ、郊外地域の形成に続く大都市圏の変化のフェーズとみなされている。このような大都市圏のかたちの変化と、現在の世代による住宅双六のプレイにはどのような関係があるか?これが目下の私の問題である。確かめてみる価値はあるだろう。

最後に、私の興味に応え、この文章を書くことを快く許してくれた祖父に感謝したい。このご時世に直接会うことは難しいかもしれないが、祖父母からもっと詳しい話を聞けたらと思う。先日、新たに光回線を契約して家にWi-Fiを通した祖父のことだ。zoomを導入してくれる日もそう遠くないだろう。

文献
中澤高志・川口太郎・佐藤英人 2012. 東京圏における団塊ジュニア世代の居住地移動―X大学卒業生の事例―. 経済地理学年報 58: 181–197.
渡辺良雄 1978. 大都市居住と都市内部人口移動. 総合都市研究 4: 11–35.

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