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修士論文の思い出

博士課程への進学を考えている人たちに聞いてもらいたいことがある。それは博士課程に進学したからといって、必ずしも博士課程で着手した研究に専念することができるわけではないということだ。どういう意味か。これから書いていくように、博士課程では自分の修士論文の始末に追われることになる。そういう意味だ。この修論の始末は呪いとなって博士課程に在籍する大学院生を苦しめる。不運にも呪われてしまった大学院生たちの呪いがいち早くとけることを願って、そして何よりも自戒の念を込めて、今日は自分の修論について振り返ってみたい。以下の文章からは、たいした示唆がなく、ごくごくあたりまえの事実が大げさに書かれているという印象を受けると思う。それに雑駁で、冗長で、感情的で、結局なにが言いたいのか分からない、とも。そこはどうか修論の始末という呪いに心底苦しんでいた私に免じて大目にみてほしい。恥ずかしながら、私は物書きがものすごく下手なのだ。それでも読んでくれたらこの上なく嬉しくおもう。それと、ここに書かれている内容のすべては私自身の経験にもとづいている。だから、すべての大学院生にあてはまる話ではないことをあらかじめご承知おきいただきたい。

数か月前、自分の卒業論文について振り返る記事の中で研究のテーマは慎重に選んでほしいと書いた。その言葉を今から3年半前に修論に取り組んでいた自分に向けて大声で言ってやりたい。というのも、博士課程に進学した私は修論の始末をつけることができず、その尻拭いを3年半後のつい最近までやっていたからである。修論の尻拭いとは、不足データを補う追加調査と文章の加筆・修正を行い、そうしてつくり直した修論を投稿論文として学術雑誌に載せる作業のことだ(私が勝手にそう呼んでいるだけだが)。私が学ぶ分野で博士課程に進学した人間に課せられる最初の仕事はこの尻拭いであり、優秀な研究者の多くは博士課程の在籍中に自らの修論をもとにした論文を学術雑誌(それも「地理学評論」や「人文地理」といったいわゆる主要紙)に載せている。結論から言えば、私は博士課程の3年間を費やして結局この作業を終えることができなかった。

これは博士論文を書くには研究成果が不足していることを意味する。一般的に博士課程の在籍中に学位を申請する場合(いわゆる論文博士ではなく課程博士になろうとする場合)には、審査時に提出する博士論文は学士課程、修士課程、博士課程の研究成果の集大成としてまとめられる。わけても修士課程の研究成果、つまり学術雑誌に掲載された修論は、多くの場合、博論全体を支える柱になる。そういうわけで、修論の尻拭いができなかった私は、成果不足で博論をまとめることができず、博士課程を規定年数の3年で修了することができなかった。そしてこの4月から博士課程の4年目に突入する。D4である。そういえば、学部生の頃にゼミの飲み会で1人の先生が「D5の夜~~~」「盗んだテーマで走り出す~」と歌っていた。尾崎豊の「15の夜」の替え歌だ。博論を仕上げられずついにD5にまでなってしまうと、いよいよ他人のテーマをパクるしか修了への道はないということだろうか。そんなことはないと信じたい。

話を戻すと、博士課程の1、2年目あたりで順調に修論の尻拭いが終わった人はその後の研究に注力することができる。もちろん実際にはこれら2つの研究は並行して進められるわけだが、少なくとも修論を学術雑誌に投稿する目処が立っていなければ、その後の研究に集中することはできないんじゃないかと思う。修論の尻拭いが下手な人にはその後の研究もクソもないということだ。いや、尻拭いが下手ならクソはついているか。とにかく私はこの尻拭いにトイレットペーパーがちぎれるほど力を込めてしまい(もういい)、博士課程の1年目も2年目も「その後の研究」に着手しなかった。なんとか修論の尻拭いを終えるためにフレームワークについて考えてみたり、対象者の語りを聞きに現地調査をしたりした。とにかく必死だった。仮にそれで修論が学術雑誌に掲載されれば問題はない。3年目から「その後の研究」を始めればいいのである。始めるのが少し遅いかもしれないが、それでも博論の柱はすでに着工済みだ。しかし、どれほど注力してみても私は修論を投稿することができず、したがって、博士課程で何の研究成果も残せないままでいた。

すこし話は逸れるが、書いておかなければならないことがある。それは、この期間に本当に多くの人たちから助けてもらったということだ。当時、研究員として在籍していたTさんはいつも研究の相談に乗ってくれた。アドバイスをたくさんくれた。結局、彼が重視する「フレームワーク」とは何なのか十分に理解することができなかった。研究の方法のことなのだろうか。なんにせよ、また夜通し飲みましょう。当時の彼女はいつも研究の話を聞いてくれた。優しい人だった。なのに私はぐちをこぼしてばかりで、やつあたりをしてしまうこともあった。最低だった。足立区の公営住宅に入居していた皆さんはこころよく話を聞かせてくれた。足立区で青果物の移動販売を行っていたKさんは公営住宅の入居者の皆さんと私をつないでくれた。ありがとうございました。お世話になった皆さんに研究成果を報告できず、ただただ不甲斐なく思っています。

そして、2年目が終わろうとした昨年の初旬、ようやく私は自分がやばい状況にいることに気づいたのだった。とにかく修論の尻から一度手を放さなければいけない。3年目を迎えた私は急ぎ「その後の研究」に着手した。柱不在のままである。煉獄杏寿郎も宇髄天元も不死川実弥もいない。先ほど言ったような博論の構成上、修士研究と博士研究のテーマは通常ひとつなぎであることが多く、それぞれが大きく異なるということはあまりない。しかし、私が3年目から取り組んでいる研究は背景・問題・方法・資料などのどれをとっても修士研究とは全く異なるものである。はたしてこれが吉と出るか凶と出るか。もう少し見てみよう。3年目から始めたこの研究については、行く末がわかってから別の機会に振り返りたいと思う。

さて、3年目が終わろうとした先月、それまで進めていた研究にひと段落がついたので、ほったらかしにしていた修論にもう一度手を付けてみた。具体的には、査読審査が比較的やさしくて原稿が掲載されやすいとされる雑誌に投稿先を変更し、論点を1つに絞って短い原稿を書いてみた。これで最後にしよう。これでうまくいかなければ修論はお蔵入りにしよう。結果は先に書いたとおりである。修士課程以来ずっと私を指導してくれている先生に原稿をみてもらった。先生のコメントは「統計が並べられているが、その意義がわからない」。これ、どこかで聞いたことがある。かつて修論の審査のときにその先生から言われた言葉だった。それから何も進歩していなかったのだ。あきらめがついた。落ち込む私に先生はいくつかの論点を示してくれたが、それらを論じるには今の自分の知識量と文章力ではおよばない。もしかすると修論をもとに何か新たな知見が得られるかもしれない。しかし、自分にはそれを明るみに出すことはできない。そう思った。このときの悔しさといったらなかった。俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった。「あんたは修論を直そうとすると決まってドツボにはまってしまうなあ」「とにかく今の研究に集中しなさい」。ぱっ。呪いがとけた。

ここまでが博士課程に進学してから現在までの私の修論をめぐる状況である。

ここからは修士課程を振り返ってみたい。時を戻そう。私の修論の題目は「東京都区部における公営住宅の建て替えの空間的特性」である。この修論、データが不足しているとか、解釈がおかしいとか、そういうレベルではなくて、もはや論文の"てい"を成していない。だから、提出してから今のいままで一度だって自分の修論を読み返したことはない。自己評価を謙遜してこのように言っているのではない。あくまで修論の主査と副査をしてもらった3人の先生からの指摘を踏まえて言っているのだ。具体的に何がだめだったのか?ここに副査の先生のコメントを引用する。「問題意識の部分と実際に取り上げたトピックとデータと結論、それぞれの段階で齟齬がある」。つまりそういうことだ。せっかくの機会なので、このコメントについて改めて考えてみた。

修士課程に在籍していた頃の私は、どうにかして新自由主義(ネオリベラリズム)を批判してやりたいと鼻息を荒らげていた。いまにして思えば、この意気込みもよくなかった。聞いたことがある人も多いと思うが、新自由主義とは、社会主義とかファシズムとかフェミニズムとかいろいろある政治イデオロギーのうちのひとつだ。「強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の論理」(ハーヴェイ 2007: 10)。それが新自由主義である。その功罪についてここでは詳述しないが、新自由主義に立脚した政策が実施されると、相応の再分配なしに経済的な二極化が進む、つまり貧乏人にお金が渡らないまま金持ちと貧乏人が同時に増えるという事実は広く知られている。地理学では、政治イデオロギーとしての新自由主義が現実の空間に表出する過程を分析する(Brenner and Theodore 2002)。当時も今も私は都市地理学の視点で問題を設定しようとしている。ならば問題にすべきは、新自由主義が都市内部構造や都市システムに与える影響についてだろう。しかし当時の私は、修士研究を進めるにあたって、都市内部構造や都市システムに何が起きているのか、それらに新自由主義がどのように関与している可能性があるのかについて順を追って議論しなかった。たぶん都市地理学の問題が都市内部構造と都市システムであることを十分に理解していなかったのだと思う。要するに、私の修論の問題(プロブレム)は問題(クエスチョン)がないことだった。それなのに、なぜかトピックだけはすでに決まっていた。公営住宅の建て替えについてである。公営住宅の建て替えを取り上げる理由ははっきりしていた。海外の研究を日本に輸入したかったからである。当時読んだ論文では新自由主義の政策による公営住宅の除却がジェントリフィケーションに関与していることが指摘されていた(Lees 2008)。ジェントリフィケーションは、都市内部構造の変化であり、都市地理学の問題である。私はこの問題について日本で検証してみたかった。私の頭の中では、新自由主義の政策が導入されたことによって都心部の公営住宅が除却されて、その跡地にマンションが建って富裕層が流入する、というストーリーがすでに出来上がっていた。まだ何も分析していないのに、である。ていうか仮にそのストーリーを実証するつもりなら、新自由主義はさておき、除却に関する公営住宅政策、都心部での公営住宅の除却状況、跡地でのマンションの建設状況、住民の変化について、実態はどうなっているのか?という問題を設定し、実際のデータからその問題を明らかにしようとするのではないか。このような分析の手順を踏むことができたなら、私はいつだって当初のストーリーを書き換えられただろう。しかし、できなかった。問題や分析の手順がはっきりしないままデータをみた。データを素直に読めば、日本で公営住宅が除却されることは少ない。この時点で、私が思い描いたストーリーは間違っていることが判明した。それならデータから読み取れることをもとにしてストーリーを編みなおさなければならない。これ、きほんの「き」である。なのに私は、あろうことか当初のストーリーに固執してしまい、どうにかデータから新自由主義の悪影響の地理を示すことができないかと躍起になっていた。そうして導き出された結論は、先生の言葉を借りれば「意味不明」なものだった。ぱっ。呪いがかかった。

PS ひととおり書き終えて思った。私は成果主義という新自由主義の価値観を知らず知らずのうちに内面化していたのではないか、と。ほかでもない私自身が新自由主義を支持していたのかもしれない。なんたる皮肉!

文献
ハーヴェイ, D. 著, 渡辺 治訳 2007.『新自由主義――その歴史的展開と現在』作品社. [Harvey, D. 2005. A brief history of neoliberalism. Oxford University]
Brenner, N. and Theodore, N. 2002. Cities and the geographies of “actually existing neoliberalism”. Antipode 34: 349-379.
Lees, L. 2008. Gentrification and social mixing: Towards an inclusive urban renaissance?. Urban Studies 45: 2449-2470.

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