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「甘くないトーキョー 」(リーグ第13節・FC東京戦:1-2)

 川崎フロンターレが国立競技場でFC東京と対戦するのは2009年11月3日のナビスコカップファイナル以来だった。

 今から約14年前である。
当時を経験しているファン・サポーターは、もしかしたら、オールドファンと呼ばれるのかもしれない。なお自分が川崎フロンターレを取材したのは、このシーズンからだ。だから、旧国立で行われたカップ戦決勝のことは、とりわけ記憶に刻まれている。

この試合終盤の84分、スタメンの横山知伸に代わってピッチに投入されたのが、高卒ルーキーの登里享平だった。

 2009年に入団した当時は、武器である俊足を生かしたウィンガーである。左サイドでボールを持ったら、愚直なまでに縦にドリブルを仕掛けてスピードで勝負する。まさに「突貫小僧」とも言うべき、プレースタイルだった。

 この時点でのスコアは0-2。敗色濃厚だったが、それでもノボリはタイムアップの笛が鳴り響くまで精一杯ピッチを駆け回っていた。

 残念ながら勝つことはできず、悲願の初タイトルはならなかった。負けただけではない。2009年の決勝戦といえば、試合後の表彰式での選手の振る舞いが問題視されて、クラブ全体がとても厳しい批判を受けることになった。川崎フロンターレに関わる者たちにとって、とても苦い思い出が刻まれたシルバーメダルだ。

 チームが再びルヴァンカップの決勝という舞台に戻ってきたのは2017年。

8年の時間を要することとなった。サッカー選手にとって8年はあまりに大きい年月だ。あの時から主力であり続けている中村憲剛は37歳を迎える年齢だった。この時も準優勝に終わり、そこからようやくルヴァンカップを掲げたのは2年後の2019年。旧国立で味わった悔しさから、10年もの時間が過ぎていたことになる。そら、取材していた自分も歳を重ねるわけである。

 迎えた2023年5月。
リーグ第13節のFC東京対川崎フロンターレ。Jリーグ30周年記念スペシャルマッチと銘打たれたこの日の多摩川クラシコの観客数は56,705人だった。平日開催のJリーグでは歴代最多となる動員数を記録だ。ド派手な演出も相まって、まるでカップ戦ファイナルのような雰囲気で、ゲームは始まった。

 あの2009年の旧国立を知る登里享平は、この日の新国立でのFC東京戦でフル出場を果たした。脇坂泰斗が退場した後半途中からは、キャプテンマークも巻いている。あの時無冠だったチームは4度のリーグ王者と2度のカップ戦覇者を経験し、あの時のルーキーは、チーム全体に目を配れるベテランになっていた。

 それだけに、この日の負け方には悔しさを滲ませていた。

試合後のミックスゾーンでは「勝って自分たちの優勝する意思を示さないといけなかったと思います」と、ビッグマッチで敗れて連勝が3でストップしたことの危機感を強めている。

「立ち上がりが大事でしたし、そういう意識していた中で良くなかった。勝って自分たちの優勝する意思を示さないといけなかったと思います。ましてやクラシコ。負けてはいけない相手だった。すごく悔しいです」

そして14年前の国立の記憶も、少しだけ聞いてみた。

「覚えてはいます。ただ、負けた記憶の方が大きいので・・・」

それほど言葉が続いて出てこなかったので、あまり昔の話を聞くのも野暮だなと思い、深追いするのはやめた。

ふと、少し遠くに目をやると長友佑都がかなり多くの記者の前で質問に答えていた。彼もまた14年前のあの国立のピッチに立っている、数少ない選手だ。日本を離れ、欧州で得難いキャリアを刻んで、ベテランとなってFC東京に戻ってきた。

 国内一筋で研鑽を積んできた登里享平と、違う世界を見てきた長友佑都。
そんな歴史を重ねてきたサイドバックの2人が、国立のピッチで対峙した多摩川クラシコでもあったんだなぁ、となんとなく思った。これもまたJリーグの歴史と言えるような気がした。

 試合を振り返っていこう。

まずFC東京の守り方は明確な狙いがあった。4-3-3を採用するFC東京は、センターフォーワードのディエゴ・オリヴェイラとトップ下の選手の2人で中央を見る4-4-2に近いような守り方を採用する傾向があるが、この日は違った。

センターフォワードのディエゴ・オリヴェイラは中盤に下がって、川崎フロンターレのアンカーであるジョアン・シミッチに貼り付く。そして両ウイングの渡邊凌磨と仲川輝人は、やや中央気味に構えて2センターバックの大南拓磨と車屋紳太郎とGK上福元直人のビルドアップを牽制する。3トップはV字型のような配置で守備対応していた。

 4-3-3の3トップに中切りされたことで、川崎フロンターレの中央から組み立ては窮屈になる一方で、構造的にフリーになりやすいポジションが生まれてくる。

 両サイドバックだ。
例えば立ち上がり。左サイドバックでボールを持った登里享平は、遅れてアプローチにくる仲川輝人のプレッシャーを受けにくい状態になっていた。

その時間を与えられた分、狙い済ましたスルーパスで際どいチャンスを作っている。5分と8分がそうで、中盤を飛ばして相手のDFラインの背後に動き出す宮代大聖に届ける場面が2回生まれている。そこは狙いでもあったと登里享平は話す。

「動き出しに対して(FC東京は)ラインを下げるのが遅かったし、GKもそこまで飛び出しがなかった。そこは常に意識しているところ。その辺で得点に繋げられれば良かった」(登里享平)

 サイドバックの背後自体を突いた形もあった。10分の右サイドを抜けた家長昭博からのクロスに瀬古樹が飛び込んだヘディングがそうだ。これはGKヤクブ・スウォビィクにセーブされたが、しっかり振り返ってみるとそこまで悪くない立ち上がりだった。

 ただその直後に失点。
長友佑都からゴール前に配給されたクロスが、中央で競り合いからそのままサイドに流れる。

ボールに追いついたのは徳元悠平。

右サイドバックの山根視来はゴール前の競り合いに行っていたので、家長昭博が深い位置までカバーに戻ってくる。利き足である左足のクロスをケアしに行ったところをうまく切り返されてフリーに。思い切って右足を振り抜いた徳元悠平に、そのままズドンとゴールネットを揺らされた。

 徳元悠平は、「風貌がどこか我那覇和樹に似ているな・・・・」と思って出身地を調べたら沖縄県出身だった。

我那覇を思い出させる豪快な良いシュートだった。そして徳元悠平という名前は、かつてFC東京のサイドバックだった徳永悠平と似てる。徳永悠平といえば、レナトとのサイドの激しいマッチアップは、2010年代半ばまでの多摩川クラシコでの密かな名物だった。これもまた歴史である。

■「勝負のパスが多すぎた。もっとシンプルに足元、足元で打開できる状況ではあったと思う」。前半の問題点は何だったのか。車屋紳太郎が口にした「勝負のパスが多すぎた」とは?

 リーグ戦ではここ4試合連続で奪い続けていた先制点を相手に許す展開に。
サッカーがゴールで動くのは当然のこと。ただ問題はその後だ。反撃しようにも、どうにもリズムが生まれていかない。ボールを保持しても、敵陣までうまく運べず、組み立てのテンポが上がってこないのだ。

「僕としてはそこまで難しくはなかったです。自分のところは空いていたので」

 ボールを持たされることが多かったセンターバックの車屋紳太郎は、そう振り返る。

 ではなぜ攻撃のリズムが作れなかったのか。車屋は言葉を続ける。

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