「善悪」という罠について
昨今、言葉の誤用を巡って様々な議論が起こっています。
最近話題になったのは「琴線に触れる」を「逆鱗に触れる」と似たような使い方をしている人が多いという話、およびそれに触発されて「誤用や誤読を避けるために平易な表現に限定してはどうか」という意見です。
誤用の訂正について「言葉狩りだ」「言葉は生き物だから変化するのは仕方ない」という意見がしばしば多数を占めることがあるのですが、今回は「言葉の起源に対していい加減すぎる態度を取っていると混乱のもとになるぞ」という話をしようと思います。
これは「言葉を誤って使ったら殺す」という意味ではありません。人間は間違う生き物なので、覚え違いや無知によって誤用をするものです(僕を含めて)。
なので、できれば正しいものを常に学ぶ気持ち、重大な誤用は放置しておかないことが大事だぞと自戒するつもりでこの文章を書きます。
「善悪」という語について
今回は「善悪」という言葉について扱います。
最近、この書籍の宣伝がそこそこのボリュームで広告されているのを見かけるのですが、確かに、善悪というのはあらゆる価値基準を越えて人々を支配しているようなニュアンスを含んでいます。
(アフィリエイトで稼ごうという気は全くないので書籍が欲しい方はGoogleとかからどうぞ。僕は未読です)
「善悪」という言葉をそのまま時点で引いてみましょう。
※以下、辞典は「精選版日本国語大辞典(小学館)」を引用しているコトバンクを用いていきます
この場合は[1]が価値基準に影響しそうな用法です。
「善」と「悪」についても個別に引いてみましょう。
善
悪
人間にとってポジティブなはずの善の方が短く、悪の方が意味内容のバリエーションが豊かなのは不思議なものですが、注目すべきは「正しさ=善」であり、「好ましくない=悪」であるという点です。
善悪の話をしている最中に「正しさ」の程度がよく言及されますが、では「正しさ」とは何でしょうか。「うっせえわ」でしょうか? 多分違います。
正
偽
おっと! さらに新語が登場しました。「真」です。
真
随分たくさん用例があります。そして再度「正」が出てきました。
ここまで登場した語は、「善悪」「正」「真偽」です。「善悪」「真偽」は対になっていますが、「正」の対義語は何でしょうか。
これは昨今非常に良く見かける定言です。ここから無限に議論がまた分岐するのですが、この定言が主張するのは「絶対的な正義は存在しない」という点です。したがって、正の対義語はまた別の正……。
そんなわけがありません。正の対義語は「負」「邪」そして「誤」です。
「負」に関しては数学用語ですので今回は割愛しまして、「邪」と「誤」について見てみましょう。
邪
また悪が出てきました。次に「誤」を見てみましょう。
誤
この二つを比較すると、「邪」はそのまま「悪」と入れ替えが出来そうです。邪気、邪念、邪魔は悪気、悪念、悪魔と入れ替えできますし、大意は変わっていませんね。
一方、「誤」には「悪」のニュアンスはあまりありません。誤用、誤字、誤算といった熟語に「悪」を入れ込むことはできない、ないし意味が変わってしまいます。
ここまで見た通り、多くの場合において「正」「善」と「悪」「邪」は同じものであるとされます。ですが、ふと気になるのは「善と正は本当に同じか?」という点です。
というのも、「正気」「正義」「正規」といった語に無理矢理「善気」「善義」「善規」と「善」を突っ込んでみても、どうも同じ語であるように見えないためです。「独善的」という言葉にもある通り、「善」には主観的なニュアンスが混じっています。
これを考えるにあたり、僕と周囲の仲間たちで議論した四つのテーマを以下に紹介します。面白いのでみなさんも考えてみてください。
善悪と正誤の関係
「サンタクロースはいない」
一般的に考えて、夢を見ている子供に冷たい現実をぶつけるのは「悪いこと」です。
ですが、これが正しいかどうかは意見が分かれそうなところです。相手の子供は何歳か? 17歳で、虐待を受けながらこれを言っているとしたら? 客観的な尺度を持ち込むことで「正しいか」が判断されますよね。
確かに言えることの1点目は「サンタクロースはいない」「良い子にしていても何も良いことが起きるとは限らない」という言葉自体が、単体の主張としては「ほぼ間違いなく正しい」と言える点です。
そしてもう1点は、この子供、そして子供に「良い子にしていたらサンタクロースがやってくるよ」と言った大人にとって、「サンタクロースはいない」と言った大人は「悪い人」である、という点です。
次のテーマを紹介します。
「事故を起こした真面目なバスの運転手」
あなたが見た通り、衝突とともに停車しなかったことを証言すれば、
恐らく運転手は業務上過失致死罪に問われ、起訴されることになります。
しかし、こんな供述の方法もあります。
「運転手は男をはねる前に停車しました」
「ぶつかってきたのは男の方です」
そうすれば、運転手の過失は非常に少なくなります。
少なくとも、業務上過失致死罪にはならず、よくすれば訓告、ともすればお咎めなし、となるかもしれませんね。
真実を告げて、善人を突き落とすか。
嘘をついて、善人を守るか。
ただ、こう考えることも出来ます。
「真実を告げることは良いことだし、人をひいたのは悪いこと」
「だから運転手に正しく罰を与えることが善いこと」
また別の合理化では「運転手も別にそんなに善人ではなかった」という方面に攻める手もあります。または、そもそもこのご時世で男一人の稼ぎに依存していた父母と妻にも問題があるのではないか、などなど。
ただ、ひとつ絶対に忘れてはいけないこととして「この運転手が酔っぱらいをひいてしまい、そのことに気付きながら一度通り過ぎてしまったこと」は事実であり、どうあがいても変えようがない、ということです。
つまり、善悪はいくらでも変更可能である一方で、正と誤は人間がどうあがいても絶対に変えようがない、ということです。嘘をついて騙すくらいしかないわけですね。
次のエピソードです。
「徳の高いルンバ」
これは前二つのエピソードの逆からのアプローチで、「主観を消し去っても善悪は成立するか」という問題です。
これについては、周囲で議論を重ねた結果「善いことをしていない」という結論に至りました。実は善行というのは以下の三点が満たされないと成立しないのです。
「善いことをしよう」と思うこと
「善いこと」を実際にすること
周囲の人に「あの人は善いことをした」と思ってもらうこと
もしも「ルンバ、善いことしてるじゃん!」と思った人がいたら、その人こそとっても善い人です。恐らくその人は「ルンバにもきっと『善いことをしよう』という気持ちがあるはず」と感じているわけです。超かわいい。
「マス・アタック・ヒーロー」
これは映画「タクシー・ドライバー」の展開を少し簡略化したものですが、この場合、この男を善人と理解する人はごく稀なのではないかと思います。
ルンバの場合は「善意があるかないかちょっと微妙」という程度でしたが、ここまで明確に悪意・害意を含ませると、結果として善いことが起きたとはいえ、これを善人と理解するのは難しいということですね。
とはいえ、男にとっては社会が「悪いもの」だったわけですから、男自身は自分なりの善で行動しています。「お前ら大多数にとって悪でも別に構わない」という開き直りはありますが、自分の善悪は自分を中心に、近いものが善、遠いものが悪という位置関係になっています。
このように、悪意の塊が善のような結果を生むこともあれば、善意でひどい結果を招くこともよくありますから、善悪というのがこれほど脆弱でぐるぐる回るものなのだというのが分かってきます。あくまで善悪は「自分」を中心とした主観によってのみ決まり、「自分」が移動するとついてくるので、自分にとって自分が悪になるというのは至難の業、または混濁し呪われた状態であるということです。
それに対して、正誤というのは自分の位置をどう変えても動かないものですから、やはり正誤と善悪は異なる判断軸であると考えた方が良さそうです。
「正義」とは何か
これもまた別の議論で「いまどきの正義はたくさんの人にいい感じに配慮してなんとか落としどころを探ること」という主張が有力です。
事実、多様性の世の中ではさまざまな価値観が入り混じり、場合によっては争いが発生してしまいますから、それをうまく調停したり宥和させたりというのが「正義」のように見えます。
いまいちど「正義」について調べてみましょう。
②は今回している倫理の話と若干ズレます。③は日本語の「正義」ではなくギリシア語の「ディカイオシュネー」、英語の「ジャスティス」に相当する語のため、ややこしいので割愛します。
①には「正しい道理」「正しいすじみち」とあります。「正しい」というのが人間の主観で好き勝手に変更できないものですから、「人それぞれの正義」というのも妙な話ですし、「正義の反対はまた別の正義」というのもまさしく「誤り」です。
では「正義」の対義語は何かというと「不義」です。
この「人として守るべき道」というのは「正義」にも出てきたものでした。きちんと対応していますから、これは対義語として間違いありません。
そして、少なくとも自分が人間社会の一部であるということに自覚している限りは、人として守るべき道を守ることは「善い」ことであり、それを破ることは「悪い」ことになります。
これは「善悪が人間を超越してある」のではなく、むしろ逆で、人間自身は主観として「正しいことを善としようとする」というわけです。
この「正」「善」が一致した状態を「正義」と捉えると、概念の整理がすっきりします。世の中には「善くて正しいこと」「善くて誤っていること」「悪くて正しいこと」「悪くて誤っていること」の四つの価値判断象限があり「善くて正しいこと」は正義、「悪くて誤っていること」が不義ということです。
この「正」というのは、過去や未来を見通せない人間にとっては摩訶不思議なもので、どうしても完全に把握できないものでありながら、否応なしにどうしても強力な影響を受けるものです。したがって、善が正を上回るのは非常に難しいことです。
たとえばこういうケースを考えてみましょう。
小児性愛者にとっての「善悪」
信じがたいことかもしれませんが、このように「小さい子供と性的な関係になること」も「本人にとっては善いこと」です。
ですが、性行為についてまわるリスク、性病、妊娠、依存などは成熟していない子供にとって致命的なものになるうえ、養育能力のない子供との生殖行為は経済的なリスクにもつながります。
昨今の人々はみんな忘れているところがありますが、性行為の目的は欲求の解消や快楽の獲得ではなく、生殖が目的です。
性行為の目的は生殖であると考えると、性成熟をしていない幼体との性行為をしようとするのは明らかに「誤り」です。動物は人間を除いてほとんどいないというのがこの行為の誤りっぷりを証明しているのではないかと思います。
ただし、その事実がすぐに善悪に結び付くわけではありません。誤った目的と行為は当人や周囲、大きいものでは社会全体に不利益を生み出しますから、そういうものを「間違っていても俺にとっては善いんだ!!」と主張し続けるのはまことにしんどいため、やがて「みんなにとっての善=恐らく正しいであろうこと」に合わせていくしかなくなるというわけです。
ここで大事なのは、多数派が必ずしも正しいわけではないということです。
「恐らく正しい」と言った通り、時に人間は集団で思いっきり間違った方向へ進む場合があります。この時は「善くて誤っている」価値判断の影響力が殊更に大きくなっています。
歴史を振り返ると、ひとつの独善的な価値観によって世界を覆わんとする強権的な振る舞いが凄惨な事態を生んだケースがたびたび見つかります。ですが、人間は間違う生き物ですから、善をいくら追求してもどこかで間違ってしまうというわけです。
ですが、誤りを認めて反省ができるのも人間の優れた特徴です。誤りを正して新たな価値観を受け入れ、自分の善悪を問うことを忘れなければ、やがて自分の正しい姿に気付いていけるんじゃないかな、と思っています。
まとめ:言葉の誤用は思考の混乱を招きますよ
少し長くなってしまいましたが、まとめるとこうです。
言葉の誤用を何となく認めていると思考もごちゃつくよ
「善悪」と「正誤」は別の価値基準なので一緒にしてはいけないよ
「善」は人それぞれだけど「正」は勝手に決められないよ
人間は間違うので、間違いを認めて反省することが大事だよ
とは言いつつ、僕自身も誤ることがたびたびありますし、つい独善的になることもあるので、常に反省、そして学びの姿勢を大事にしていかねばならないなと思っています。
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