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オールの小部屋から㉔ 林真理子さんと松本清張

 GWの連続更新から、気がつけば1か月。いったい何をしていたんだ……。
 遅ればせながら、好評発売中のオール讀物6月号について、どうしても記しておきたかったことをひとつ。
 巻頭に掲載した林真理子さんの短篇「皇后は闘うことにした」がたいへん話題を呼んでいるんです。主に社内ですが、何人もの人から「林さんの短篇、よかったね」と声をかけられました。編集部に「見本誌ある?」「読ませて」とオールをとりにくる人もいたりして、いくら社内とはいえ、こうした反響はめったにないことです(村山由佳さんの「プライズ」以来かもしれません)。
 こちらの短篇、GWあけの5月7日の朝、編集部のファックスに手書きの原稿として送られてきました。いつもならまず担当者がワープロで清書し、印刷所に渡し、活字の形に組まれた校正刷(ゲラ)になってから私は読むのですが、待ちきれなくて、生原稿のファックスを借りてそのまま読み進めました。あまりの面白さに、読み終えてすぐ、

 皇太子妃に必要なのは、美貌か、健康か、聡明さか/一夫一婦制を導入し揺れる皇室。国母であることを求められた女性の運命とは――/慟哭の短篇!

 こういう目次用のリード文を書きました(実際には文字が入りきらず、もっとコンパクトな惹句になっております)。
 短篇「皇后は闘うことにした」の主人公は、大正天皇の妃・貞明皇后。明治も後半に入り、西欧の「一夫一妻制」が常識となり、皇室もそれに倣わなければならなくなった状況下で、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の妃選びがおこなわれることになった……というのが物語の発端です。
 よく知られているように、明治天皇には大勢の側室がいました。側室との間に5男10女をもうけましたが、成人したのは5人だけ。そのうち男子は嘉仁親王ただひとりで、しかも病弱であったわけです。いまも昔も、子どもが元気に育つということはたいへんに難しい……。さらに西欧列強のキリスト教的価値観に合わせて、側室制度をやめなくてはならない。
 そうした中、皇太子の結婚相手としてどんな女性を選ぶべきか――。侃々諤々の議論が巻き起こります。いったん皇太子妃として内定していた女王がとりやめになるなどの混乱の結果、選ばれたのが貞明皇后だったというわけです。
 林さんの筆で貞明皇后をとりまく情勢が綴られていくと、当時(いまもでしょうが)ひとりの少女(15歳です)が天皇家に嫁ぐのがいかに大変なことであったか、どれほどの重圧に耐えねばならなかったか、読んでいるこちらの胸が痛くなるほどに伝わってきます。私の隣の席で、林さんの生原稿のワープロ清書を手伝っていた女性編集者などは、「後半からしか読んでいないのに、涙が出て読み進められない」と語っていたほどです。
 15歳で皇太子妃となり、やがて皇后として激動の時代を駆け抜けていくひとりの女性の姿を、わずか原稿用紙37枚で、かくも生々しく描き出すことができるのか。小説家・林真理子の神髄に触れることができる傑作短篇です。多くの方に、雑誌を手に取ってお読みいただきたいと思います。

林真理子さん(©文藝春秋)

 貞明皇后といえば、私にとっては松本清張『昭和史発掘』が強い印象を残しています。じつは『昭和史発掘』に貞明皇后自身はほとんど出てこないのですが、秩父宮(昭和天皇の弟君です)を溺愛した母親として言及されているのですね。『昭和史発掘』の後半、「2・26事件」を分析する浩瀚な記述の中で、2・26事件当時、青森の弘前連隊で大隊長のポストにあった秩父宮が、将校決起の一報を聞き、急遽、夜行列車に乗って上京するくだりが、いかにも清張らしい、意味ありげな筆致で綴られていきます。
 もともと青年将校たちと深い親交があった秩父宮は、叛乱部隊に同情的だったとされます。一説に、青年将校たちは秩父宮を担いでクーデタに打って出たという見方さえあるほどで、かなり強引に上京を決めた秩父宮に対して、宮内省が困惑し、天皇が不機嫌になるさまを清張は描いていきます。資料の引用が多くて、決して読みやすいとはいえない「2・26事件」の記述中、私は、清張の筆がいちばん乗りに乗っているのが、この秩父宮上京のシーンだと思っています。天皇と秩父宮の仲が決してよくなかったこと、貞明皇太后は次男である秩父宮のほうを溺愛していたことに加え、さらに『昭和史発掘』で清張は、重要な事実を記しています。
(弘前より急いで上京参内し)「宮中からまっすぐ大宮御所に入った秩父宮が皇太后のもとにかなり長い時間とどまっていた」、と。
 結局、秩父宮が決起後の将校たちに肩入れすることはなかったわけですが、このとき御所内で秩父宮と皇太后(貞明皇后)とがどんな会話を交わしたのか、想像はふくらみます。

松本清張(©文藝春秋)

 そうした清張の見方を踏まえて、今回の林さんの短篇を読むと、貞明皇后の前半生のごく一部が描かれているだけなのに、後年の「秩父宮溺愛」の理由がうかがえるような一節があったり、小説の後半、下田歌子と皇后とのやりとりの中で、林さん自身が非常に大胆な仮説を呈示していたりして、まさに今回の短篇が、清張の『昭和史発掘』と呼応しているように思えたんですね。
 あわせて私が衝撃を受けたのは、このオール6月号のメインが「松本清張特集」だという符合です。この偶然は、まるで神の配剤のように思えたのでした。

 林さんは、この「皇后は闘うことにした」執筆時のエピソードを、週刊文春のエッセイ「夜ふけのなわとび」に書いています。

このゴールデンウィーク、ひとつ決めたことがある。短篇をひとつ仕上げるということだ。

週刊文春2024年5月23日号

 さらにつづけて、

 私は担当の編集者に連絡をとった。
「今、そちらにあずけている短篇、いくつあるかしら」
「4つあります」
「ずっと塩漬けにしてるのはマズいよね。あといくつ書くと単行本になるかな」
「あと2つもらえれば」
「じゃあ、ゴールデンウィーク中に、必ず40枚の短篇書きます」
「えー! 本当ですか」

週刊文春2024年5月23日号

 この担当編集者こそ、noteの編集部だよりでおなじみ、最年少編集部員シマダさんなのでありました。
 ちなみに、松本清張特集のメインは、

 永久保存傑作リスト付大座談会
 清張さんの「歴史時代短篇」を選びぬく!
 有栖川有栖×北村薫×宮部みゆき

 豪華で楽しい座談会になっています。林さんの短篇とともに、松本清張の小説世界もお楽しみいただけたら幸いです。

(オールの小部屋から㉔ 終わり)

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