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いつかはベホマズン_はじめに

「先生、その薬飲んだら、またエジプトに行けるかね」
「うーん、それはなんとも言えないけど、また大好きなエジプトに行くにどうしたらいいか一緒考えさせてくださいよ。諦めたらそこで終了になってしまうとおもいうから」
今から4年前、僕は在宅医療の現場で仕事を始めた。
それまでは、医師になるきっかけを作ってくれた横浜市立市民病院で外科医として働き、2年間の予定で厚生労働省へ出向していた。
再び病院に戻る予定だったが、省内で担当していた「地域医療構想」や「地域包括ケアシステム」と呼ばれる地域を守る新しい医療の仕組みに触れ、もっと現場レベルでかかわれるようになりたいと思い、在宅医療に携わることにした。

当時、在宅医として初めて担当した94歳のおじいちゃん(僕にとっては、自分の祖父のような人)は昔から旅行好き。在宅酸素を導入していて、歩くこともままならない状況だったが、死ぬまでにもう一度、エジプトに行ってピラミッドを見たいという夢をもっていた。

「人間はどんな時だって、夢があれば前向きに生きていけるのだな」と、改めて僕は思った。

何歳になっても挑戦する人はかっこいい。
それからしばらくして、おじいちゃんは夜間に喀血し、ご家族が朝起きたときには息を引き取っていた。確かにいつ何が起きてもおかしくはない状態ではあったが、つい昨日まで夢を語っていたおじいちゃんが、今日はもういない。

あっけない死を前に、悲しい気持ちに至るまでには少し時間がかかった。僕以上のご家族への悲しみは強かった、少し後悔があるようにも見えた。夢を叶えてあげられなかったことに対しての後悔だった。

僕はおじいちゃんの気持ちを聞くだけで満足してしまったが、本当は聞いた段階で「エジプトに行くのはちょっと無理かも」と思っていたところがあった。
本当はそこから関係性を詰める中で、本当にやりきるべきこと、インサイトのようなものを抽出するべきだった。
本当に家族が後悔を残さずに済むような目標設定を僕はしないで、うわべの優しさを提供していたのではないかと悩む日々を送むようになった。

最期にどんな気持ちになったら人は幸せなんなんだろうか。多くの人の最期に立ちあい、そんなことをよく考えるようになっていったが、僕が生きるとは何か、死ぬとは何かで悩むのははじめてではなかった。

「病気を防ぐことはできないかも知れないが、病気を中心にした人生にならないように生きて欲しい」僕が自分が医師として患者さんに思っていることであり、自分が患者として思ったことだった。

15歳の時、ぼくは「潰瘍性大腸炎」という病気になった。

最初は下痢や軟便が続き、血便に気づくようになった。高校受験で座ることが多かったので「痔」になったのかなと思っていた。

高校に入って、梅雨時になると食欲がなくなり、発熱するようになった。原因がわからないためいくつかの病院を受診し、ようやく潰瘍性大腸炎と診断された。
潰瘍性大腸炎は、大腸の粘膜の内側に炎症が広がり、大腸がただれたり、潰瘍ができるなどして、腹痛、下痢、軟便、血便などの症状が起こる原因不明の難病だ。

高校に入ってすぐの治療や入院で、友達との関係が作れず、勉強にもついていけなくなった僕にとって学校は居場所ではなかった。また幼少期に離婚をするなど、複雑な家庭環境だったこともあり、家にもいたくなかった。毎朝家を出て、通学途中の駅で映画を観たり公園で過ごすこともあった。
担任の先生の努力や両親のサポートもあり、ギリギリのところで何とか高校を卒業したものの、その後は定職にもつけず、ただ病状が悪化するのを他人事のように感じながら、時間だけが過ぎていた。

19歳になると病状はさらに悪化し、高熱と腹痛が続いて入院したが、治療効果はなく大量出血したため、選択の余地なく大腸を全摘出することとなった。
「残念だけど、大腸を全部摘出してしまった後は元に戻すことができません。このまま一生、人工肛門になってしまいますが、命を救うためには仕方ありません」
医師にこう言われるほどの、命にかかわる大変な手術。6Lもの大量出血だったらしい。人生で初めて死を意識した瞬間だった。
それまでは、自分が生きている意味を感じることなどはできなかった。
「いつ死んでも別に構わない」
本気でそう思っていたが、いざ死にかけてみて、僕は人生で初めて死にたくないと思った。

「残りの僕の人生は、人のために役立てることを誓うので、どうかもう少しだけ生きさせてください」

緊急手術は成功し一命は取り留めたが、その日から人工肛門で生活することになった。

当時は、僕を受け入れてくれる職場や女の子なんていない、一生温泉にも入れないのかなど、想像で不安ばかりが強くはなっていたものの、炎症を起こしていた大腸がなくなったことで体調は良くなり、日常生活においての不自由さはあまり感じず、思っていたより、すんなりと受け入れることができた。

「残念だけど、現代医療では人工肛門を閉鎖する方法がないんです」
医師からは障害者申請をするよう薦められたが。ひとまず色々と不安はあったが、当時、祖母が僕の将来を案じてパソコンを購入してくれたので、障害者申請の方法ではなく、何気なく人工肛門を閉鎖する手術のことを調べてみることにした。
すると、インターネットの情報から、「人工肛門を閉鎖して肛門から排便できるようにする手術」があることを思いがけなく知り、たまたま母も近くにある横浜市立市民病院で手術ができることを聞いてきていたため、すぐに病院を受診することが出来た。その日から半年後、一生付き合うつもりだった人工肛門をあっさり閉鎖することとなった。

この時から、手術をしてくれた横浜市立市民病院の医師、現在の炎症性腸疾患科科長は、僕にとってスーパーヒーローのような存在になった。
自分もいつかは、人を助けるヒーローになりたい。

外科医になろう。

目標が定まり、そう願って20歳から医学部を目指し、努力を重ねた。高知大に入学し、とても素敵な先輩たちとの出会いもあり、外科医として重要だと言われながらも絶望的に足りていなかった「体力とコミュニケーション能力」も少しずつ身についていった。高知の穏やか空気に育てられ、紆余曲折はあったがついに31歳で横浜市立市民病院の外科に所属することになった。
こうして僕は、うんこまみれの絶望的な状況から憧れだったヒーロー医師になることができた。

目標だった医師になってからの僕は、少しでも誰かの役に立つことを自分の価値にしよう、人に喜ばれることを自分の幸せにしようと決めて、様々な能力を身につけてきた。

医師として活動する傍らで、コーチレジという高知県の医師不足を解消するためにコンテンツマーケティングを利用して高知県に医師を集める活動をしたり、大腸癌死を減らすために大腸癌早期発見を目指した「うんコレ」というスマホアプリを日本うんこ学会という団体の立ち上げと共に実装したり、医療や介護に関心がある人で構成されたオンラインコミュニティ「SHIP」を立ち上げたり、厚労省に出向したり、デジタルハリウッド大学院に行ったり、起業したり……医療現場の課題を解決したいという思いで様々な活動を行いキャリアを形成してきた。

色々とできることが増えて必要とされる仕事も増えていく中で、それでも自分が生きている価値を、どこか実感できずにいた。
「自分には、この世の中で人の役に立たなければ、生きている居場所もないし価値もない。自分の命を燃やして誰かの役に立ち続けるんだ」
 そんな気持ちが常に心の奥にあった。
そんな中、「難病から不登校になり、偏差値30から医学部に入学して医師になった」という僕の経歴が話題となって、講演やインタビューなどの依頼が増えていった。

インタビュー記事には「自己肯定感」という言葉がたくさん使われていた。
僕は幼少期から少し複雑な家庭環境で育ったこともあって母親の顔色を伺いながら「必要とされる自分」を演じるように生きていたように思う。

息を吸うように他人からの評価を気にして、周りの人の顔色ばかりうかがって生きていたことに気がついた。
そんな生き方をしているうちにいつの間にか、自分というものがなくなり、誰かの顔色を伺って「正解」を見つける癖ができてしまったように思う。幼少期や中・高校生時代に自分らしらを獲得できないまま病気になり、さらに自信を失って今に至っている。


僕は幼少期から、ただ自分の居場所が欲しかった。
「例え病気や障害で思うように成績がでなくても、それでも僕には生きている価値があるんだ」と誰かに認めてほしかったのだと思う。それを人は愛と呼ぶのかも知れないし、自分に向けられれば自己肯定感と呼ぶのかも知れない。

ある日、自分一人でがんばることに疲れた時、僕は初めて本気で仲間に助けを求めた。
仲間の一人が「自分の感情にむりやりふたをするのは、もうやめていいんじゃないか」と言ってくれた。僕が無理して誰かの役に立とうとしなくても一緒にいてくれたのだ。僕だけがそのことに気づかず、幸せを実感できずにいた。
そして今は、「ありのままでいい」と言ってくれる人と一緒にいることが、自分にとって幸せなことだと心から思えるようになった。
自分を好きになることが上手になったかはまだ分からないんだけど、自分を大事にしてくれる人たちのおかげで、もう少し自分を大事にして生きていきたいと思うようになっていった。

あの日のおじいちゃんがエジプトに行くことはもう出来ない。けれど、誰かと夢を共有して生きていくことで、人の感情や思いは残り続けるのかも知れない。僕はいつしかエジプトに行くことで、おじいちゃんの夢を叶えてみたいと思うようになっていった。僕が明日死んでしまうとしたら、誰にどんな思いを残せるのだろうか。

早く行きたければ、ひとりで行け、
遠くに行きたければ、みんなで行け

アフリカに伝わることわざで、僕の一番好きな言葉だ。

親の問題や病気のために自分で人生をコントロールできなかった思春期、医師になりたいという細い細い蜘蛛の糸のような希望をたぐることで生きる意味を持てた。それから少しずつ前に進むことができて、前向きに生きていく中でたくさんの仲間との出会いにつながっていった。

今ではその仲間や素敵な人たちとの出会いによって、更に自分には生きている価値があるのだと思えるようになってきた。
ライフ イズ ビューティフル。
人生はいつだって自分のものだ。

僕のこれまでの人生や経験の何かがヒントになって、誰かの傷の回復や幸せにつながることになれば、それはとても幸せなことだと思う。


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本noteでは…

一冊本を書かせてもらい、多くの反響をいただきました。ありがたいことに読売新聞社のサイトで連載をさせてもらったりもしましたが、遅筆であったことや、なんとなく世間のニーズを探ってしまい、書くということに対してのフォームを崩して「書くことイップス」になってしまいました。

本来は自分が思ったことをただまっすぐ、正直に書けばいいのだと思いますが、自分の言葉に自信がなかったことが理由なのかも知れません。


在宅医療を提供する「おうちの診療所」を開業し、「株式会社omniheal」という医療とクリエイティブな会社を運営して、少しずつまた仲間が増えてきて輪が大きくなってきました。
大切なメンバーだけど、なかなか忙しさにかまけて、仕事の内容、数字目標みたいなことばかり言っていて、普段から自分が考えていることや感情について話さない、話せないことが増えてきたように思います。
組織の代表者としては、本当は自分の言葉で色々表現して、言語化する中で理解を得てもらえるようにするべきだと思うようになってきました。

というわけで、本ブログは近しい仲間に話すつもりで書いてます。

で、お前誰だよ。


ここまで読んでくれた上で「お前、誰だよ!レッツゴー!」と往年のTAIGAさんのネタが頭に鳴り響いた方とは、とても仲良くなれると思います。相互フォローしたいので是非メッセください。

そんなTAIGA好きばかりではないと思うので、僕の経歴・機能的な面をご紹介しておきます。

2010年高知大学を卒業後、
近森病院という高知県の救急病院で初期研修。
研修中にコーチレジという、ちょっと尖ったコンテンツマーケティングを利用して研修医を高知県に集める活動を行い高知県の研修医増に貢献。高知医療再生機構の特任医師として、特任業務を兼任させてもらうことになりました。
この延長で「YouTubeでみる身体診察」という医学書を初めて執筆者・編者・動画製作者として全国に自分の製作物が広がる体験をしました。

その後、自分を執刀してくれた先生を慕い、外科医としてのキャリアは横浜市立市民病院の外科・炎症性腸疾患科へ。IBD外科医としてのキャリアを歩みはじめましたが、1年間大腸癌を中心に手術を行う中で大腸癌の早期発見・早期治療がとても難しいことを実感。大学生時代に習った「行動変容理論」を思い出し、日本うんこ学会を創設、『うんコレ』の製作に挑むことになりました。

同人サークルとして、完全ボランティアでPHRの要素を持ったフルボイスRPGゲームを制作し、東京ゲームショウへの出展や海外のメディアにも出演するという謎の経験が評価され、総務省が主催する異能vationという賞を頂いたり、多くのメディアに人を巻き込む人として紹介されたりすることになりました。(日本うんこ学会は常時メンバー募集中

外科医として自分の腕を磨くキャリアの延長線上に自分のやりたいことや、叶えたい医療感を見出せず、医師6年目で厚生労働省に出向、医系技官として地域包括ケア・地域医療構想の分野に携わることに。特にNDBやDPCデータベースを利用した政策立案に従事していました。

当時経験させてもらった中の業務の一つにデジタルヘルス・特にAIやロボットなどの先端テクノロジーの文脈を理解する必要があり、自分自身のクリエイティビティをあげたいという気持ちもあり、デジタルハリウッド大学院のデジタルヘルスラボの立ち上げのサポートをしながら、自身もデジタルハリウッド大学院に入学しました。(2019年卒、デジタルコンテンツマネジメント修士)

また、厚労省時代に「医療には臨床・経営・政策という3つのレイヤーがある」という話を聞き、医療経営にも関心を持ち以前よりメンターとして慕っていた裴さん率いるハイズ株式会社で非常勤勤務を開始。当時ハイズが事業として停滞していたTHVというコワーキングスペースの再建の一つとして、東京都より補助金を受けながらヘルスケアに特化したコミュニティ「SHIP」を誕生させました。
補助金期間を終えてSHIPは独立し、現在約150名のメンバーで構成され、オンラインを中心にイベントやフィールドワーク、プロダクト創発などを行なっています。(150名を目安に不定期にメンバー募集をしています)

課題が見つかるたびにキャリアを変えながら生きてきましたが、厚労省時代に感じた、今の医療・介護の最大の問題である2025年問題、人口構造の変化に伴う疾病構造の変化にどうアプローチするべきなのかを考える旅だったように思います。
現在は、うんコレ等テクノロジーを利活用した予防医療、秋葉原内科saveクリニックや遠隔診療などの治療継続、おうちの診療所での在宅医療と「病院の外側の医療」というものに最大関心を持って取り組んでいます。
これらを統合して、一番自分が活動しやすい拠点としては株式会社omnihealの屋号でやっています。もしお仕事や講演依頼はこちらまで。

※超絶関心を持ってもらった方は、僕のこれまでの人生の攻略法を描いた「19歳で人工肛門、偏差値30だった僕が医師になって考えたこと」という超ド直球なタイトルの書籍がPHP社より出版されていますので、こちらもご覧ください。

というわけで、

これまでに興味を持ってきたジャンルとしては医療・介護を中心に、行動変容やクリエイティブ、コミュニティやテクノロジーなどに加え、人のこと、特にチームや人事・採用については学びを深めてきたので、適宜お勉強したこともシェアしていきたいと思っています。

時にはポエムのように、関係性とは、幸福とは、生きるとはなど正解のない話をして逡巡することもあるでしょう。特に心を病んでいるわけではありませんので安心してください。感じたことを好きに書いてみようと思います。

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