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村、町、街の話し①

パイオニア達

名古屋、下之一色の強烈な体験は、やがて本人の生業を、街に求める強い動機へとなっていきます。体験後、幾多の学術書、文献、本と巡り合います。柳田国男の「都市と農村」もその一つです。
農村の振興は農家一軒一軒の農業の振興(規模、作付け種、農法、売り先等)だけではなく、むしろ農村全体を多様な農の営みの集積とし、それらを支え合うシステムが重要となる、と言ったものでした。
農村には農家だけではなく、農作物を加工し、異なる物を再生産する者、それらを流通させたり売ったりする者、農作物を調理し人に食べてもらう者、農に関わる道具等を作ったり治したりする者、等々の多様多層な人々の営みのある村、町づくりからのアプローチが、彼等を支える共同体のシステムを伴い農村、農業の振興となる、また、かつての農村には、それらが在ったと言ったものでした。
(この中では(村、町づくり)と言う言葉は使われていません。当時の社会では使われていなかったのでしょう。また社会システムの論は割愛します)

また、柳田の弟子でもある宮本常一は「村のなりたち」「町のなりたち」の著作の中で、現在も○○村字○○町(〇〇町字○○ではなく)と言った村と町の順序が違っている住所を持つ集落が多々在る所からも分かるように、村の中に町がある、村=里=人の住む所の一部に町が出来た、と歴史研究を通じて述べています。
(町=平安期に使われ始める店を表す言葉であり、それ以前の律令制で使われた田の範囲を表す言葉とは違う意味で、宮本は使っています。)

底流

柳田の言う「農の多様多層な営み」と、宮本の言う「村の中に出来た町の成り立ち」の双方から、街づくりは、その地での人々の営みを多様多層とする村づくり、町づくりの時系列的同一線上の先に控えているもの、自然(じねん)の関係を持つものだと解釈出来ます。
人々の暮らしの営みの総体は、住む場、働く場、文化の場の総体となってかつての村、町、そして今日の街の総体として、その土地のものとなって現れる、と下之一色の街が語りかけていたようです。
この多様多層な総体のもたらす、つまりは小宇宙観に、人は街の何たるかを知る、街の不二なるもの、かけがえのなさを知るとも、やがて失ってしまうであろう故、いっそう下之一色は語りかけていたようです。(反面、こうした小宇宙観を持てずになってしまった街もありますが・・・)
そして、君がかつて心打たれた街のポイントは、君の街を捉える感度やセンスを表し、学問的にも裏付けされる、とパイオニア達の声が少し小さく聞こえたようでした。


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