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コミュニティ・共同体考

時間から空間へ

万物が一体となるとは、万物の生滅も死活も一体となること。人間もその例外ではなく、その様は現在で繋がる未来と過去の時間がスタートとゴールの無い円の様な運動をする。時間は全体から見ると、円と言うより、個々全体が重なり合う球のような諸行無常的な運動体となる。(以前の章参照)これは「神も人も自然(しぜん)も等価であり、とりわけ人と自然の関係の在り方、結び方から、自然(じねん)と祈り、神を人が感ずるようになったことから始まった。」とすると、合点がいきます。そこで、改めて私達の祈りの史観(時間)を眺めると、祈りを共有する人々の共同体(空間)が見えてくると考えます。また今後、風土を再考することともなりましょう。

基調思想

人類学では、土着的な信仰(祈り)であるマナ信仰(精霊信仰、太平洋の島々に見られる万物に宿る精霊達)は、ポリネシアンからハワイ、一方、 台湾、インドネシアそして日本へとの伝播ルートを持つと言われています。
また、時が経ち、朝鮮半島からは、カミ信仰(古事記や日本書紀に見られる天地創造のカミ達)が伝播して来ます。更に、カミ信仰に加え、大陸から仏教、道教が入って来たと言われています。入って来たと言っても、正式なものではなく、民間の人々の普段の大陸での暮らしの中で出来上がったものだったようです。こうして、精霊信仰と仏教、道教が混ざり合い民衆の神々の世界が出来ていったと言われています。道教の開祖は老子と荘子と言われています。荘子が理想とする世界(道)は、無為自然(むいじねん)です。(ちなみに老子は、国とか国王が真ん中にあって、正しい天道(天からの道)が末端まで伝わっていく世界を理想としていますが)
また、中国で道教と混ざり合いつつ解釈された仏教も、最澄(天台宗)、空海(真言宗)のもたらした密教(秘密仏教の略、教団内の師弟間で伝授させるもの)より早く、民間レベルで入って来たと言われています。
仏教から人々は、煩悩にまみれた人間観を学びます。道教(荘子)の無為自然と仏教の煩悩と土着的な精霊信仰は、神=人=自然とし、ヤマ(山)に死者の霊は帰り、そのヤマの森の中で自らの魂を清、浄める。何故なら、生まれ死ぬ過程の中で、人間は私、自己を持つ故、魂も穢れる。それを年月をかけ浄めていき、やがて神となる。自分が生まれ、死んだ村の集落つまり、地域のご先祖様、神となり見守る。(ご先祖様とは明治以降に、我が家のご先祖様になりましたが、それ以前は、地域、里のご先祖様を表していました。仏教でも我が家のご先祖様と言う概念は当初はありません。武家や貴族は出自が大切である故、家が重要ですが、民衆の社会は、家だけでなく、共同体(里、郷等)も万物であり、大切とする心を持っていたからです。)   これが、神=人=自然とする山の神、水の神らを生み、自然(しぜん)、自然(じねん)の中に存在する神仏と人間の万物一体的な世界観、祈りの世界を生み、私達の身体に馴染んだ基調思想へと連なっていくのです。但し、これらは縄文期以降から古事記、日本書紀の完成以前、つまり定住的狩猟採集から定住稲作農耕と言った定住の暮らしの中での祈り、信仰の変容をまとめたものですが、同時に定住民と交流しながら移動遊動の暮らしを選んだ人々(山人)も日本には最近まで存在していました。この文脈から、祈り、信仰を捉える事も重要となりますが、以前の章をご参照下さい。
こうして見てくると、私達が思わず日の出や山々に手を合わせたり、亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんが見てくれている、ご先祖様のおかげで今がある、と言った祈りには、説得力があり、自然(じねん)的であり、考えるよりも、自然(しぜん)に湧いてくる感情が祈りのようです。判断の主体を神に求めたり、宗旨に求める宗教とは異なり、もっと身体に近いもののようです。ここで、もう一度「時間」に立ち戻ります。これまで見てきた私達の基調思想と生滅、死活を引き受ける万物一体の球的時間運動は空間を表します。従って、この丸ごとの空間が、私達の基調となる共同体、コミュニティの世界を表していると考えます。

コミュニティ・共同体

コミュニティ・共同体と言うと、私達は閉鎖的なもの、封建的で自由の無いもの、古くて壊すべきもの、と言ったイメージをかつて持っていました。 また、声の大きい人に従う雰囲気を共同体は持ち、他の人はそれに追随するか、異なる意見を発し持つ人は葬られると言ったイメージを持っていました。
日本の近代化は、国民国家(国家が上位にあり、村々町々はこの下位にあたり、中央が村や町を管理すべき集権のシステムとその整合性を計る思想的なものの総体)と市民社会、資本主義にあると言われてきました。その前期は、遅れた世界であると、この近代化要素を社会が肯定すればこそ、近代化以前より(明治期以前)農村漁民或いは、町にあった共同体を遅れたもの、劣ったものと見るイメージが定着したのでしょう。(今日は違いますが)物事の意味は、その時代のイデオロギーに影響されます。かつて評価されていた考え、人物が逆に懐疑的になったり、その逆となったりすることは、まま有る事です。それを、コミュニティ論に沿えば、コミュニティがゲマインシャフト(地縁血縁)からゲゼルシャフト(利害関係や目的意識)へと移行するのが近代形成の理論だとするフェルディナント・テンニス(ドイツ 社会学者 1887年 ゲマインシャフトとゲゼルシャフト)に対して、コミュニティは社会生活、共同生活に必要なものであり、文化等が共有された結合体であり、コミュニティの中に、アソシエーション(ある目的を実現するための結合体)が生まれてくる。様々なアソシエーションが生まれ、活発となるとコミュニティもその成長を早める。(元々のコミュニティがアソシエーションによって代謝しながら、永続的に存在するとの意)としたR・M・マッキーヴァ―(アメリカ 社会学者 1917年コミュニティ 1975年日本での初版)が挙げられます。テンニスは、共同体は古い社会のものだから、壊すことがイコール市民社会には必要だと捉えていたことが伺えます。それに対して、マッキーヴァ―は、共同体自体は必要なものであり、それを時代に即していき、永続化することが必要だと捉えていたことが伺えます。共に古典と言われるものですが、今日ではマッキーヴァ―に分があるようです。コミュニティ史観を持つとは、時代のイデオロギーの影響を後年より受けていないと思われる原初的共同体とは、どのような文化が共有されていたのか、しかも民衆の中で、それは歴史底通を持っているものなのか否かを解かないと始まらないと考えます。それは、また人々は共同体の中で、どう生きたのかを想像し得ること、身体性無しには解けないと考えます。そこには、これまで見てきた祈りの解釈が底流に横たわっていることが分かってきました。(結論的ですが、先に述べておきます。)                 今日、コミュニティの再生、地域の再生を日常的に聞くようになりました。子供や高齢者達の安全や安心、災害等からの安全、学びや生きがいの実感等々の活動を地域にもたらそうとするものです。これらは、アソシエーション的であり、課題を解決するための方法を策定する仕組み化イコールコミュニティの再生と捉えられているような気がします。コミュニティ、共同体とは、既述したように本来、神=人=自然とし、ヤマ(山)に死者の霊は帰り、そのヤマの森の中で自らの魂を清、浄め、私、エゴ、自己を浄め人は神となり、村、集落、地域を見守る、生者はそれを感じる、と言った祈り(文化)を共有する小集団でした。村、里、郷(今日の大字、字等の集落)を単位とするローカルな世界で展開する、形でなく精神の世界が本質にありました。その精神の世界観を感じ共有することで生きていく上での矛盾との折り合い方、自然との折り合い方を地域に生み出してきました。(判断も主体を万物、等価に求める故、時に矛盾しますが)つまり、アソシエーションによって、ある目的を実現させようとすることは大切ではありますが、そのアソシエーションの在り方、とるべき現実への方法論は、基調思想の理解無しには成り立たない、ここから押さえないとコミュニティ再生、地域の再生は成り得ないとコミュニティ史観が示していると考えます。そもそも、コミュニティ、共同体は、国民国家的目線から捉えることには、無理があり、その地域、地域と言ったローカルで且つヒューマンスケールサイズの中でのものであり、各々にローカルに形成されたコミュニティ、共同体が開かれ、他のコミュニティ、共同体と交じり合うものだと考えます。国あっての村、町の捉え方は、国が上位で村、町が下位になる観念的ヒエラルキーを人々が持つに至る。すると地方より都市、地方都市より中心都市が優れている。故郷の共同体を離れ、都市に向かうことが自身の立身出世なのだ、となってくる。と同時に、資本主義も市場と言う都市目線から地方、村、町を覆うようになり、やがて皆が上位へと進もうとする。進めない者は下位と言う否定観を持つようになる。地方や村に未だいる自分を、都市や中心都市へ向かった(今日では世界、それはグローバル?)立身出世の他者と比べ、自己否定観を拭い切れずにいる。進んだ者は進めない者に選民意識を持つようになる。互いに格差を抱く様になる。こうして、共同体、コミュニティが壊れていく。壊れていくと、再び共同体、コミュニティの再生の御旗を国(県、市も)が掲げる。そこに無理が来る。こうした構造下だからこそ、ローカル、民衆(そこに生きる人々)基調的思想(精神)や万物との折り合い方を含めたコミュニティ史観が大切なのです。街づくり、コミュニティ共同体再生における地域主体の意味は、ここにあります。そこで、これらに通ずる地域と風土に優れた著作を残したと思われる人物に三澤勝衛(1885~1937)がいます。

風土

三澤は「風土」を著述した和辻哲郎(1889~1960 哲学者思想家)と程同時代の人であり、諏訪地方(長野県)に生まれ旧制諏訪中学の教師をしつつ「風土産業」「地域からの教育創造」「地域個性と地域力の探求」等を書いた在野の研究者です。風土は、大気と大地の接触面(大気でも大地でもなく、気候でも土質でもない、独立した接触面)であり、この接触面=風土こそ地域の個性、地域の力の源泉であるとし、その風土には優劣は無く、生かせば無価格で偉大な価値を発揮するとした。自然の特徴と郷土人の歴史的な努力、それらと有機的に連関する風土によって、地域が形成されていくことこそ、地域の振興の道、地域づくりである、と述べています。風土を活かした地域産業と教育の探求は、暮らしや景観、更に地域への共感、愛着へと繋がり、風土生活=地域づくりへと発展していく、とも述べています。  元々、地理学の教師ですが、風土を基調とし、そこで営まれる暮らしの思想、生業の様、都市計画ならぬ農村計画への策定、産業振興策の提示、景観の美、そして学び合い等、その視点は、街づくりプロデューサーと同じくするものです。技術的なアウトプットではなく、こうした視点の拡がりとそれを支える風土思想に共鳴した記憶が蘇ります。だからこそ、風土を一番広くて諏訪地区、更には江戸期の村位の範囲や集落の範囲で捉える彼のローカル観は、先のコミュニティ史観と重なり合うと考えます。但し、風土の取り扱いには、注意も必要です。先の和辻は、世界を3つの風土に大まかに分類し日本を含む東アジア一帯を、東アジアモンスーン地帯としました。つまり分類された東アジアモンスーン帯は、共通の文化圏を持つ地帯であるとするものです。その地帯は、大東亜共栄圏と重なり、当時の欧米諸国の植民地支配からこの地帯の諸国を解放させることは、同様の文化圏にある日本の国際秩序上の役割だとする考え方に、風土論は収れんされてしまいます。日本を盟主とする共存共栄の大東亜は、先の大戦での日本のアジア支配の正当なる理念スローガンとなってしまったのです。                一方、範囲を狭くする風土論にも注意が必要です。それは、ローカルファースト主義の弊害とも言えます。我が地域、村、町は風土に根差した独自の文化、産業がある。ここに暮らす私達は愛着を町に強く持っている。ここまでは良いのですが、この気持ちが、我が町は一番である、こんなにも愛着を持っている人が多い町は他には無いのでは、と言った優生思想のようなものに転嫁した瞬間、この地域のコミュニティは他者に対して閉じてしまいます。自らは循環しつつ、他とも循環し合う、万物感のあるコミュニティでなく、単に壊すべき閉鎖的コミュニティへと戻ってしまいます。基調思想を解さない、風土やコミュニティ、共同体の読み方はこうしたミスを起こし易くなります。コミュニティ、共同体は心の社会の総体であり、万物一体の中の不可欠な一部なのです。だからこそ、なかなか、理解するのが手強いのです

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