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マルクス・資本論再考 ④

富(コモンズと私達)

街づくりの基調であるべき暮らしの豊かさに関して述べてみたいと思います。これまでも、全体を体系付けて、それを論じることをせず、ランダムな章立てで述べてきましたが、私達の今とは異なり、その時空を超えて社会、人の有り様を研究する文化人類学、私達の暮らしの時間を丁寧にたどり戻る民俗学等の知識と資本主義の知識、これらを包括する思想、哲学等を用いて社会比較することで、暮らしの豊かさ、生き方の豊かさを論じ、それが私達の生きるフィールドである街の豊かさ、美しさと通底する、と言った大まかなイメージ系を持っていました。

そこで、サルトル(フランス人、哲学者)は言います。(存在と無、所有論)所有と所有権を区別して日常的な所有の観念を解き放つ。例えば、丘の散歩による風光の所有。これは、丘は所有権を誰かが持つが、その丘を登り見える全風景は、その丘を持っている所有者のみのものではなく、その丘に登り風景を見ている人の所有となるのだと。(見晴らしの良い丘陵農地を散歩してみて下さい、実感出来ます)
また、マルクスは言います。(経済学、哲学草稿)我々が対象を所有する時に(所有する事で)、初めて対象は我々(私)のものであると言うふうになっている。世界に対する人間的な関わりは全て、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感じる、思考する、直感する、意欲する、愛する、云々、人間の個性の全ての器官によって、世界を獲得するものなのに、対象物の私的所有によって、これらが疎外されようとしている。

つまり、マルクスの言う社会的共有財(コモンズ)に対して、ものの所有は、排他性を原理とする所有権である限り、万人が所有することはない。これに対し私達を解き放つものが、サルトルの所有論であり、私的所有の否定ではなく、万人が所有する社会のシステムも存在すること(その意味を所有権者も非所有者も共有し合うこと)イコール富める社会とするものが、マルクスの言うコモンズの真善美(以前の章を参照)と言えるのではないでしょうか。これが暮らしの豊かさの原理と言えるのではないでしょうか。

一方、メキシコ北部に住むヤキ族(インディオ)のある老人の世界を、人類学者であるカスタネダがまとめたフィールドノートを更に読み込み、私達が抱えた矛盾であり、資本主義発生の元ともなった移動遊動の暮らしから定住の暮らしへの選択に、根の欲求と翼の欲求と言う言葉で切り込んでいる見田宗介(社会思想家)は言う。大地が、タダで差し出してくれるもの(透明な存在)を圧殺し続ける中で、根を持とうとすることと、翼を持とうとすることは、必ず矛盾する。翼の追求が根の疎外、根への執着が翼の断念となり二律背反を越えられない。それは今の私達の暮らしの様に。但し、最も確かな実在の大地に我々が根をおろせば、根を持つことも翼を持つことも矛盾しない。翼を持って行くいたる所に、未だ見ぬふる里はあるのだからと。

これは、迫害に伴いインディオのコモンズ所有の世界が領土拡大者達の所有権の世界への変容、すなわち透明な存在の大地=確かな実在の大地の持っていたコモンズの喪失が、インディオの自在感、自由、民俗学からも明らかとなっている事と同様な、人も自然も神も等価とするインディオの社会観(レヴィ・ストロース等人類学論文から伺えます)しいては文化総体の喪失を表し、先のマルクス、サルトルとも呼応し合うものです。柳田国男(農政学、民俗学者)も宮崎県椎葉村での体験で同様なことに気付き、後の活動に大きく影響されます。(以前の章を参照)私達の暮らしの豊かさは、実在の大地=街のコモンズ=等価な思想を持つ街の思想と、その実践が不可欠なのです。野人、山人の思考(以前の章を参照)がそこへ私達をガイドしてくれます。街づくりは、その実践だと考えます。

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