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ライフスタイル考          Plain living High thinking          マルクス資本論再考

マルクスと同時代、もしくは一定期間重なる時代を生きた、        ワーズワース(イギリス 詩人)、H.D・ソロー(アメリカ、哲学者)、 ハインリッヒ・ハイネ(ドイツ 文学者)等の著作を通じて私達の暮らし方を考えてみたい。
これまでの論述同様、あるテーマの史観を異なる分野での先人達で比較することは、考えてみたい概念像のイメージを描くことに近付くと思います。 そこで、時代感度の高い芸術家達を比較登場させます。

ワーズワース・Plain living High thinking

ワーズワースは明治大正の文学にも大きな影響を与え、人は自然の中の  一存在であり、人と自然の等価な関係が人と人との付き合い方や態度にも 表れる。それは、人の営みの総体である村にも町にも、美として表れる。 と言ったことを主軸にイギリスの湖水地方を美しく詠った詩人である   ばかりでなく、等価を失いつつある都市を批評しつつ暮らしの豊かさを  求めた詩人だと解釈しています。
ワーズワースの詩の一節(ロンドン)ですが、 ‘われらの最も富める者は、最も良き人と見られ、強奪、貪欲、浪費、これぞ我らが偶像、我らはこれを崇むる。質素な生活、高遠なる思索は既に無く、善き主張の飾り無き美は去り’ とあります。ここに登場する「プレーンリビング・ハイシンキング」と言う言葉は暮らしの豊かさに対するワーズワースの核心だと考えます。

H.D・ソロー 実在

ワーズワースに影響を受けたとされるH.D・ソローは、その著作マサチューセッツ ウォールデンでの自給自足な生活誌である ‘森の生活’ が代表作と言われています。生前は、ちょっと風変りなローカル作家と言った評価 から死後、彼の作品はアメリカ文学の最高傑作の一つとの評価へと変わります。                                ニューイングランド地方で、自らが行った、人と自然との関わり方(森の声、匂い、姿、手触り、等、自然の命、生命の営みの中で、農と暮らす、思索を巡らす)から、暮らしの実在を求めた本書は、ローカルから普遍性を描いた哲学との評価です。‘実在が架空のものとされる一方で、虚偽と妄想が確固たる真理としてもてはやされている’ とソローは言っています。‘衣食住は虚栄と言う妄想、農業工業商業は節度無く貪欲、そして便利さと言う妄想をふりまいている’ とも言っています。                彼にとっての実在とは、幻想との対の問い掛けにある実在の模索であり、その実在は抽象的思考よりも、自然も人も神も等価であり、自らの身体性、身体を使った自然との営み、自然への祈りが幻想から抜け出し、自立的、主体的実在に至ると実在を考えているように思われます。自由であり、暮らしの豊かさが、そこにはあると言っているようです。                                          また、自由であり、暮らしの豊かさのある実在的生活は、分業化により家事を一人で完結出来なくなってしまった私達の生活力の復権(家作り等)や、その象徴である自給自足のみを指すのではなく、消費や経済も重視し選択出来得る暮らし方を指しているようです。これは、月に何度賃金をもらう労働をすれば自給自足が可能か、とか、農や家事作業は賃労働何回分に相当すると言った事が、自身の決算として詳細に書かれてあり(だから生活誌なのです)他の生き方を犠牲にして、一つの生き方だけを過大視しなくてはならないのだろうか、人が買ってくれるものを考える代わり、売らずにすむ方法を研究したいと彼が言っている事から伺えます。ワーズワースの言うプレーンリビング・ハイシンキングと重なり合うようです。


散歩・身体性

ワーズワース、H.D・ソロー共に共通した身体性として、ウォーキング・散歩があります。彼らの散歩は健康のためのウォーキングと言うより、1日に30~40㎞歩くトレッキングのようなものだったと想像して下さい。    散歩しながらワーズワースは詩を生み、ソローに至っては、散歩自体はその日の事業であり、生命の泉を探しに行く冒険且つ戸外の書斎「図書室」だと言っています。                                                                                                 散歩途中で森の測量に出会い、境界線を設ける事で、今後、自由に散歩出来なくなるであろう事を、コモンズ(共有財)の喪失と感じたり、逆に、丘の頂きに立ち、人々の暮らす町を眺めた時、町すなわち経済や政治の活動の様が未だ全風景に占める面積が小さい事に、コモンズの存在を感じ、安堵したり、黄金色に風景が染める太陽の光に、浄土を想像し聖地に向かう穏やかな祈りの感覚を感じつつ、固有の風土性にコモンズを感じ取っています。      彼にとって、それらは実在の暮らしのもたらす美だとも言えます。だからこそ、散歩は、その日の重要な事業なのです。以前既述しました、遊動移動の民、実在していた山人、サンカ達の歩く意味も、この祈りの感覚と、定住民により発生したコモンズの諸問題の認識にあるようです。                         私達の感じる散歩や旅を通しての人々の営みや村町の持つ美、それを感じ取る祈りの感覚、そして農を通じて植物や樹木から感じ取る精霊の存在等は、これまで既述してきました。(以前の章参照)バックパッカーのバイブルである遊歩大全(コリン・フィッチャー著)も、歩く技術、道具の散歩誌ですが、その真意は、こうした所にあるようです。             等価性、身体性と実在は、私達個々の暮らしの豊かさ、プレーンリビング・ハイシンキングのキーワードのようです。

ハインリッヒ・ハイネ 祈り

祈りの感覚について補足したいと思います。フランス人にドイツ古来の精神を紹介する為に書かれたとされる精霊物語と流刑の神々。(ハインリッヒ・ハイネ著)精霊物語は当時(1835~1836)キリスト教の浸透に伴い、古来の農民、町人達の民間信仰が邪教とされ、民俗伸つまりは、人間と共に暮らしていた小人や妖精達が人間の生活圏から去っていく様子を描いています。キリスト教化されたヨーロッパでは、民俗学の研究は、民間信仰に対してはなされ得なかった、民間信仰は邪教への迷信とされるから。と言われています。ここに切り込んだハイネや精霊物語、流刑の神々(精霊物語と同テーマを持つ)同様、当時はとてもラディカルなものであったようです。
キリスト批判ですから。
一方、ハイネの著作に影響をされたと自ら言っている柳田国男(民俗学者)は神道や仏教以前に日本人の持っていた信仰を辿りつつ、定住農耕民以前の移動遊動の民、山人へと向かっていきました。(以前の章参照)また、これまで述べてきたように人と自然と神が等価であり、ヒエラルキーを持たなかった日本では、古来の祈り(山、田の神、山岳信仰等)や精霊達(河童、動物、天狗、妖怪達等)、伝承等が今尚残り、神・人・自然の順でヒエラルキーを持つキリスト教化ヨーロッパでは、ハイネが苦労し、かすかに残っていた伝説や古い奇書からようやくドイツの古来信仰を見出したように、当時ですら自然への祈りは既に残っていませんでした。
(自然=神=人)と(自然<人<神)の関係各々の違いは祈りの対象の多様(自然、人、神)と一つのみ(キリスト教)の違いに物申したワーズワース、H.D・ソローの世界観の源泉ともなっていることが分かります。祈りの対象が多様に湧き出す感覚を持てる事は、身体性と実在の果実なのでは、と彼らが言っているようです。


暮らしの豊かさ Plain living High thinking 詩作

逃げろ、逃げろ、田人(たびと 定住農耕民)の所有、蓄積、権力、         排他から逃げた野人(のびと 移動遊動民)達のように。
逃げろ、逃げろ、意味付けされた記号から逃げろ。記号は妄想、幻想を生み続ける。世の中に蔓延し尽くす。
私達を衣の記号、食の記号、住の記号 そして人生の記号で惑わす。
記号使いと囃し立て、記号の奴隷へと魔の手が伸びる。
田人達は、そうとは気付かず、そこに留まる。             野人達は、そこから歩き始める。

そして、歩こう、歩こう 祈りが起こるまで、                                              身体を使って、野人達のように。
歩こう、歩こう 妖精や精霊達が見えるまで、自分の身体で感じるまで。  自然(しぜん)を歩こう。
ただただ歩こう。自然(じねん)となるまで歩こう。歩く道には、営みの美、実在する美の世界が広がっていることに気付く。
この世界を作る、共に作る、自由に作る。田人でもなく、山人でもなく、  野人達が気付いていたように。

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