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原発処理水海洋放出は「権威的な言葉」によって

2月24日、とうとう東京電力福島第1原発処理水の海洋放出が開始されてしまった。

これに先立つ同月21日に、全漁連坂本雅信会長ら漁業関係者と岸田総理の会見が行われたのだが、坂本氏らによる、
「反対は変わらない」
という声は、まったく岸田総理らの耳には届いていなかった。

今、この21日の席を「会見」と表現したが、まさにそれは「会見」でしかなく、「対話」の場でなかったのである。

岸田総理から発せられた
「数十年の長期にわたろうとも処理水の処分が完了するまで政府として責任をもって取り組む」
という言葉は、「対話」(ダイアローグ)のそれではなく、「単声」(モノローグ)でしかなかった。

「対話」において広く知られているM・M・バフチンは、「対話」の過程のなかからこそ意味が創造されると考えていたという(佐藤公治,1996,『認知心理学からみた読みの世界 対話と協同的学習をめざして』,北大路書房)。

そして、モノローグ的な言葉は、他者の能動的な役割を最小限まで弱めているならば、「権威主義的なことば」になるおそれを常にはらんでいると言っているという(佐藤,上掲書)。

「権威主義的なことば」とは何か。
ワーチは、バフチンの言葉を引用しながら次のように説明する。

「権威的な言葉が我々に要求するのは、承認と受容である。それは、我々に対するその内的説得力の程度にかかわらず、我々に自己を強制する。我々はそれを、あらかじめ権威と結合したものとして見出す。」権威的な言葉の意味構造は「死せるもののごとく不動」であり、他の声との生き生きした接触を許さない。意味の生成および思考の装置として働くのでなく、権威的なテクストは「無条件の承認を要求」(中略―引用者)(する)のである。

(ジェームズ・V・ワーチ,田島信元 他訳,1995,『心の声 媒介された行為への社会文化的アプローチ』,福村出版)

「対策に全責任を持って約束する」という岸田総理の言葉に、漁業関係者の思いは理解され、汲み取られているのだろうか。

何百年にも渡って地元の海を守り育ててきた漁業関係者が願うのは、海を汚さないこと、海の命を守ることそのものであろう(まさに、あの『海の命』の「太一の海」のように)。
それを、単に「風評対策やなりわい継続支援に全力を挙げる」という言葉で覆うことは、海とともに生きてきた人々の尊厳を「札束」に置換することでしかないのではないか。

会見後の政府による「関係者の一定の理解は得たと判断」という、漁業関係者の発言内容とまったく異なる内容の発表は、2015年の「関係者の理解なしには放出しない」という漁業者と政府や東電が交わした約束を空文化するものであり、岸田総理の言葉が予め「無条件の承認を要求」していたものであったことの証左である。

岸田総理の言葉は、まさに「権威的な言葉」でしかなかった。

ところで、この「権威的な言葉」を用いる危険性は教師にもある。

「バフチンは、権威的テクストの事例として、『父親、大人、教師の言葉』とともに宗教、政治、道徳テクストをあげている」(ワーチ,上掲書)という。

だからこそ、教師は、子供と対話をしながら学習・活動の目的を設定したり、取り組む方法を計画したりする指導へとシフトしようとしているのが、現状である。

教師・子供に「対話的な学び」が何よりも求められているといってもいいだろう。

にもかかわらず、そうした政策のど真ん中にいる人間が「権威的な言葉」で問題を「解決」している姿は、教師や子供にとってどのように映るだろうか。

そもそも対話によって問題が解決できるという考え方そのものが、気高き理想ですらなく、単なる楽観主義に過ぎないと思えてしまったら、それは取り返しがつかないことであろう。