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宿題が必要か不要かの議論の前に

中部地方のある小学校で、「宿題をなくす学校改革」をしているという報道を視聴した。

興味をそそられたので詳しく聞いていたら、「宿題」はなくすが、代わりに「家庭学習」に取り組ませるのだということが分かった。

その「宿題」と「家庭学習」の相違点は、前者が「音読や漢字ドリル、計算ドリルなどの<以前から行われていた『強制的』な>もの」で、後者は、「自分で取り組む内容を考えて決める『自主的・主体的』なもの」だということだった。

こうした学校・教師がどれだけ増加しているのかは定かではないが、宿題の変化の動きの背景には、学力観そのものの変化があることは確かだ。

今の子供たちが生きていくこれからの社会は、その変化が予測困難である。
その時代を生き抜いていくためには、自らが主体となって人生を切り開き、社会を構築していく力を育むことが必要だという学力観が、今のスタンダードになっている。

文科省も、現行の学習指導要領への改訂に込めた願いとして、次のように述べている。

学校で学んだことが、子供たちの「生きる力」となって、明日に、そしてその先の人生につながってほしい。/これからの社会が、どんなに変化して予測困難な時代になっても、自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、判断して行動し、それぞれに思い描く幸せを実現してほしい。/そして、明るい未来を、共に創っていきたい。

文部科学省「平成29・30・31年改訂学習指導要領の趣旨・内容を分かりやすく紹介」


こうした学力観に対して、<以前から行われていた『強制的』な>宿題の方は、定められた力を一律に注入することによって産業主義社会の担い手を大量に育てる過去の教育方法であるという捉え方をされることが多い。


ところで、宿題の「必要」「不要」論議の前に、宿題の目的について議論をすることが先決ではないかと、私は考えている。

学校・教師は、なぜこれまで宿題を出してきたのか。
また、これからも出そうとしているのか。
その理由をまず明らかにしなくては、宿題というものが必要なのか、不要なのかを考えることが始められないのではないかと考えるのである。

それによって、宿題の内容・質について、例えば、『強制的』なものでよいのか、『自主的・主体的』なものであるべきなのかといったことの検討も可能になるはずだと考えている。

私は、これまでこうしたことを考え、悩みながら子供に宿題を出していた教師だったので、冒頭の報道に対しても興味をもった次第である。

そこで次回、宿題の目的について考えたい。