子供の問いから始める読むことの学習への疑義
子供の問いから始めていいのか?
国語の読むことの授業において、単元の導入部で子供の感想や疑問から問題を作り、それを問いていく方法を推奨する文章やその実践報告を近年よく目にする。
恐らく、学習者中心の授業へのシフトが声高に語られているせいだろう。
確かに日常の読書生活において、問いを立てたり疑問を感じたりしてそれを明らかにするために読み進めるということを私達が行う場合はある。
その意味では、教室において物語的文章や説明的文章を、問いを設定して読むことは、読み方の一つであるとは言える。
しかし、その指導方法は、本当に子供を主体的に読むことに向かわせるだろうか。子供の読みを充実したものにする支援になるのだろうか。
実は、この読むことを子供の問いから始める学習方法は今に始まったことではない。
私が経験的に知る限りでも、日本の国語教育では50年以上前には存在していた。私が児童・生徒だったときにこの方法による指導を受けた記憶があるからだ。
そしてまた、この方法に対して否定や批判が繰り返し行われてきた。
例えば、宇佐美寛氏は40年前に『国語科授業批判』(明治図書,1986)において次の六つの理由を挙げ、これが「非現実的で愚かしい」方法であると断じ、大学生相手の授業でも自身は行わないと述べている。
①学生は自分がどこがわからないのかが、わからないのであり、まさに学習すべき課題など、これから学ぼうとする者に「知りたい」という意識をもって自覚できるはずがない。
②学生が「わからない」こと、「知りたい」ことと、「わかるべき」こと、「知るべき」こととの関係をどのように捉えるのかについては詳細な議論が必要だが、まず学生が知りたがるか否かに関わらず、「知るべき」ことに到らせるために、教師が課題を設定しなければならない。
③本当に「わからない」こと、「知りたい」ことは、初期段階では、うまく言葉にならない。
④ある場合には、「わからない」ことであるからこそ、それに対応する言葉も見出せない。この場合、「わからないことを言え」という指示は、無茶である。
⑤自らの「わからない」ことを発見・自覚する思考の学習は簡単ではなく、それを学習させないで「わからないことを言え。」というのは無理である。
⑥教材文を読みはじめた初期段階でさきを見通した課題を本当に課題感を持って設定するのは学生には無理である。何が学習課題かが明確に自覚でき解決意欲を持っている者に対しては、もう授業の必要はないのである(pp.175-177)。
また、一部の子供の疑問が即座に学級の学習課題に成り得ないことや、初読の時点で感じた疑問がその後の数時間もの学習において継続したり深まったりすることが困難であることも、これまでしばしば指摘されてきたと私は認識している。
子供が設定した問いを解決すればそれでもう学習者中心の学びになるとか、それによって資質・能力が育まれるとかいった短絡的な教師の反応や、さらにそれが個別最適な学習になるといった安易な発想が、近年の子供の問いから始める読むことの学習のトレンド化を招いているのではないだろうか。
子供中心の読むことの学習とは
では、どのようにしたら、子供の読むことへの意欲を引き出し、子供中心の学習によって確かな力を育むことが可能になるだろうか。
私は、次の二つのことを考えている。
一つは、問いが深まっていく単元の構成である。
子供が問いを生むことを大切にするのであれば、それは導入部よりもむしろ読み進めていく過程で行うことであろう。
導入部は教師による「大きな」課題の提示であっても構わないと私は考えている。
教師が課題を提示すると子供が受け身の学習になるとすぐに考えてしまうのは、過敏で反射的だ。
教師が提示した課題であっても、それによって子供が深い問い、育みたい力に結びつく問いへと迫っていく学習過程の方がよほど子供主体の学習である。
そして、その方法で子供がたどり着いていく「最後」の問いは、ほとんどの場合、教材文の外へ広がる。その教材文を読むだけでは答えの出せない問い・課題へと深まるはずである。
読解とはそういうことであり、読解力とはそういうもののはずだ。
二つめとして私が推すのは、首藤久義氏への学びである。
首藤氏は、例えば近年も、『国語を楽しく、―プロジェクト・翻作・同時異学習のすすめ―』(東洋館,2023)を発刊するなど、長きに渡り国語教育において、文字通りどの子供にも確かな国語の力を楽しく育む指導方法を提案されてきた。
このnote上でもクリエイターとして記事を発信されており、本書についてもご自身で紹介されている。
本書では、子供に学習の内容・方法・素材などを選ぶ権利を保証する「同時異学習」や、その具体的な学習方法である「プロジェクト単元」、「翻作」について集大成的に語られている。
これまで卯月啓子氏の実践などに触れた経験のない教師は、例えば物語をインタビュー記事に書きかえる「翻作」の学習方法を知ると、目を丸くするかもしれない。
だが、これまで「慣れ親しんできた」指導・学習方法が、妥当であったとどうして言い切れるだろうか。
忘れたくない教えることへの畏れ
40数年前、初めて教壇に立った頃、国語の教科書に掲載されている文章を読んで、子供たちはこれらを読みたいと心底思うだろうかと率直に感じたことを思い出す。
恐らくそれらの文章は、「優れた」教材文なのだろう。しかし、教師になって出会った目の前の子供たちが前のめりになって読みたがるような魅力に溢れているとは思えなかった。しかも、この教材文を何時間もかけて何度も何度も読むことを要求することになる。
当時の私は、育むべき国語の力とは何かも今以上によくわからず、したがって教材の良し悪しの判断も的確にはできていなかったはずだ。指導方法の引き出しもまるでない状態であった。しかしだからこそなおさら、子供たちと教材文との間の溝が深く思われ、罪悪感すら覚えたのだった。
だから、どうしたら少しでも子供たちが自ら楽しんで読もうとするのか、無い知恵を絞った。指導・学習方法を考えた。
しかしである。月日が経つにつれて、いつのまにかそうした罪の意識は薄れ、自分の中に、「これだけ自分が工夫をして教えているのだから、子供たちが意欲的に読むのは当然だ」という気持ちが芽生えてきた。
そしていつしか、以前は読むことを拒否する権利を有していると捉えていた子供たちを、読むのが当たり前の学ぶべき存在として見るようになっていったのである。
子どもの疑問・感想から国語学習を組み立てる方法は、自分にとってはこの過去の失敗経験と似ている。
本来は子供の主体的な学ぶ姿を具現化する方法だったはずなのに、いつのまにか一つの型となり、子供を教材文に対して問い・答えるべき存在として見なしてしまっているのではないだろうか。
「学習者中心」「主体的な学び」といった「理論」が制度として社会から要請されることで、前のめりになった教師の視野は一層狭くなり、「学習者の主体的な学び」の姿が逆に見えにくくなってしまう。
そんなとき、例えば首藤氏の考えに触れることは、「目を丸くする」だけに留まらず、教師に省察を促すのではないだろうか。