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【小説】廃屋ネイル(6/8)

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【第六話】
漫画喫茶でゴロゴロしていると頭上から声がした。
「いたー!」
見ると太一が仕切りの扉の上から首を出してこちらを見下ろしている。
「ルミさんのピンクのスニーカー、分かりやすかった」
「なかなか推理力に優れているな。頭がいいのだな」
「全然メールも電話もくれないからさー」
全く忘れていた。かわいそうに、ネイルを落とすすべがなく困っていたのだろう。
太一は個室の扉を開け私の隣に勢いよく座った。主人にじゃれる子犬のように小刻みな興奮が見える。生温かさが押し寄せた。
「めちゃくちゃ、これ、好評」
と、少し伸びたユニオンジャックの薬指を見せる。爪の根元が二ミリほど肌色になっていた。
「で、ね、でね、俺ね、いいこと思いついたんです」
私の短くなった髪には一切触れない。
「何」
相手が感情に満ち溢れているとその場のバランスを取ろうと調整作用が思わず働く。いつもより倍は素っ気ない話し方をしている自分に気付く。
「また違うのやって欲しくて。ほら、とびきり女の子っぽいのやって。このピンクの花とか付けてください」
太一は持参のネイル雑誌を広げ指さした。
「いいの?」
「いいんです。やってください」
「何に目覚めた?」
「だから、そう一直線に偏見持つのやめてくださいって」
「アンタ見てると昔いっとき耳にした環境ホルモンって言葉を思い出すよ。あ、環境ホルモンって、口にしたの生まれて初めてかも。カンキョウホルモン。カンキョウホルモン」
 太一は私を制するように雑誌を勢いよく閉じた。
「確かにそのホルモンに俺は侵されているかもしれない。そうなのかもしれないけど、それはもう知ったことではない。それよりそれに適応していくことを考えよう」
「へえー」
「あのね、気付いたんだ俺。綺麗なネイルしてると、やったら女の子が見てくるんだ。しかも否定的じゃなくて、かわいいってね」
「それはそれは」
「で、とっさに彼女がネイリストの勉強してて、試験が近付いているから実験台になってあげてるのって答えた」
「何だと?」
一瞬勘違いしそうになったがそういう意味ではないことはすぐに分かった。それに気づける人間で我ながら良かった。
「そしたらさ、すごく評判いいの、俺」
「なるほど。女のために犠牲になってる男は美しいかもな」
「犠牲って、相変わらずネガティブなんだね。今の十代の三十%は犠牲って言葉知らないかもよ」
「バーカ」
「イイネー、相変わらずだわ、ルミさんのその『ツン』」
「ツン?」
「ツンデレのツンですよ。あのね、俺ね、正直、もてたいとかさ、思った事ないんです。努力もしたことないし。でも努力しなくてもモテる気配がしたからすごい得した気分」
「人並みの男性なんだな、そのあたりは」
「女の子の考えていることは全然わからない。わからないから興味がわく。解明したいから頑張ってみようと思う、んでしょ、普通の人は」
「まだお前のステップはかなり低いところにいると見えるな。かなり夢見がちに聞こえる。まさか童貞?」
「うん」
つぶらな瞳で私をじっと見る。卑下している様子は全く無い。
「十九か、なくはないわな」
「いいんです。今は正直そんなむやみやたらな欲望はないです。好きな人ができたらそういうの考えます」
「やっぱり、なんか人間らしくないなあ」
「男らしくない、を通り越すんですね、そこは」
「そうだよ、人間らしくない。美し過ぎ」
「そんなこと言われたことないなあ。周りと比べても違和感とかないし」
太一の言うとおり、年齢差というのが私の目を曇らせているのかもしれない。渡辺さんが仙道千夏に抱いた感情と同様に私も太一を知らなさすぎるがゆえ、自分の見たい像を勝手に太一に重ねて見ているのか。
「でも、ほんとにこんな、ピンクの花でいいの?」
「女の子の気持ちがちょっとはわかるかもしれないし」
「知らないからね」
廃屋に向かう途中も太一は本当に楽しそうにしていた。
「廃墟オタクの友達に話したらさ、すげー興味持ってたよ。今度連れてくる」
無邪気だ。ふと思う。太一の第一印象は何だったのだろう。ふわふわしていて中身が無くて、どちらかというと世間の視線から逃げ惑うように下を向いている印象だったのに、明らかに今それとは違う。上を見ているというのとも違う。
見えないはずの紫外線が強くなっていることを確実に感じ取って私は思わず目を細める。

ねえ、太一。
いつからマニキュアがネイルアートとしてもてはやされて、女子はサロンに通うのが当たり前のようになったんだっけね。
努力したってなかなか理想のボディラインやハリのある肌ってのは手に入れにくいものだけど、それにひきかえネイルといったら、手をかければかけただけ、きちんと美しく仕上がっていく、その自分の体の一部にうっとりしちゃうんだ。指先に小鳥でも飼っているみたいに時折眺めて、チューするくらいに慈しんじゃって、ドーパミンだのベータエンドルフィンだの、放出しまくっちゃってさ。まあ、快楽なんだよ。言ってみりゃネイルは麻薬だな。依存性、中毒性を確かに持っている。
3Dの花びらを竹串でめくり上げながら私はそんなことを話していた。太一はちょうどいい相槌を時折入れながら黙って聞いていた。終わるとまた満足げに、つま先を愛おしそうにながめ、ケーキみたいで美味そうだ、となかなか素敵な感想を述べ、目を光らせ、帰って行った。
その後ろ姿を見た後、まだ前向きになれない自分に落ち込んで湿っぽい畳に横たわった。こうしてこのまま腐ってしまえばいい。たとえ朽ち果てても、エジプトの女王のミイラみたいに、爪に乗せたネイルストーンだけが変わらない高貴な光を放つに違いない。
ボロボロの薄暗い家の中にいて、屋根に開いた穴の隙間から見える晴れた空って、その切り取られた色ってすごく際立ってきれいに見える。木の板の粗雑なささくれの枠に縁取られた小さな世界。手の届かないあちらの世界はほんとに幻想的で均一だ。
「おーい」
「わっ!!!」
人の声がするとは思っていないので信じられないくらいに心臓がびくついて、全身の細胞がハリネズミのように逆立った。跳ね起きて玄関から近づく足音に耳をそばだてた。
声の主はすぐに分かった。現れたのは頭にタオルを巻き、よれて黄ばんだティーシャツ、ペラペラした安っぽい短パンをはいた本当にただの小汚いオヤジ、父だった。
「どうしたの」
十年ぶりに見た父。電話では元気に思えたが十年分の老化は確かにあった。全体に水分が抜けて萎んだという感じ。足は全然肉が無くて細い。そのくせ腹だけは出ている。こいつどうせ家でダラダラしてるだけなんだろうな、と踏む。
「ビール買ってきたぞ。飲まんか」
血管の浮き出た腕を上げ、白い袋を差し出した。
「お、おう」
缶の発泡酒が四本、そぐわない大きな袋につつましやかに入っていた。戸惑いつつ、嬉しい。近くで買ったのか、とても冷えている。
「久しぶりだ。うまい」
夢中で飲む私を見て父は、お前老けたな、と言った。こっちのセリフだと言い返したいところだが、若くてハリのある彼女に見慣れていればそう言いたくなるのも納得だ。
発泡酒のCMに出ている女優の笑顔につられて買ってしまっただの、セブンイレブンの惣菜ハンバーグが美味いだの、しばらくそんなどうでもいいことしか父は言わなかった。わざわざここに足を運んだのだから何かを伝えに来たのは確かだ。だがそれを聞くよりも先に私には訊きたいことがあった。
「あの粗大ゴミたちは、なんなん」
「ああ。見ないうちにまた増えたな」
「何なのって」
「知らんよ。ゴミ置き場になっただけだ。いいんだよ、ここはどうせ家ごと廃棄物だ」
そう言うとゆっくりと立ち上がり、腰窓を開けた。肩が内側に入り込んだ背中。重量感は皆無だ。そして肌の色がとても白かった。日に当たることもないのかもしれない。
父の言う通りここは家ごと廃棄物で、そしてこうしてここに居る私達もまさにそうだ。消耗して傷んで、やがて。
 父は振り向き、背中に強い西日を受けた。夕方のにおいがした。
「最初はなあ、彼女が店で気に入った家具を見つけて、すぐ欲しいと言い出して、でも置き場に困って、それで古い家具を家の庭に仮置きしてたんだな。そのうち業者に引き取ってもらおうと思ってはいたけどな、金かかるし、面倒でほおっておいた。そしたら知らんうちに近所の人たちの格好のゴミ捨て場になったんだな。結局みんなの役に立っているんだから、いいんじゃないのか」
相変わらず歪んだ論理を駆使して自分を都合よく正当化する。
急激に日が暮れ、ほぼ父の顔が見えなくなった。蝋燭に火をつけた。昔、停電したときこんなことしたっけな、と思い出す。
唐突に、失恋した、と父は言った。
「ほお」
実はとても驚いたが表には出さなかった。
「初恋でした」
「初恋って」
母の存在はいずこ。
「ほんとうの恋ってやつだな」
蝋燭の灯が七十五歳の父の潤んだ瞳を輝かせた。そこには広がっていない星空に目をやり、ビールを飲み干すと黙ってポケットから写真を出した。健康的なタイプのふっくらした女性が居酒屋らしきところで日本酒を飲み笑っている。
「彼女、だった人」
確かに素直そうで、かわいいかと言われればそうでもない普通の人で、悪い人には見えなかった。確かに二十八歳に見えた。
「映画をよく観に行ったよ。本当に彼女とは趣味が合って、話が絶えなかった。彼女が観たいという映画は全部俺もそう思っていた作品だった。俺はシニアだからいつでも安いし、だからレディースデーの木曜日に毎週のように……」
それがどうして父の言う「別れる」に至ったのか。
「彼女は結婚したよ。嬉しそうにその報告をしてくれた。俺のことどう思ってたんかなあ」
それは聞けば、ただのお年寄りへの親切心だった。単に雨漏りがひどくなったと言ったら、じゃあ、よかったら部屋を貸してあげると言われただけなのだから。しかし父はそれを好意、それも異性に対する好意ととらえ、
「好きというのは体目的とかじゃない」
と、気持ち悪いことを言い出す始末だ。本気で言っているのか。
「その人が幸せってことならそれでいいじゃないの」
私は慰めるしかなく、それ以上の言葉は浮かばない。
姉に電話し、父と暫く一緒に暮らしてもらうように頼みこんだ。姉も私の時とは対応が異なり、すんなりそれを受け入れた。私が姉と会話する途中、父はガラケーを奪い取り、言った。
「ここは売る。売れるまでは世話になる。悪いな」
一時間ほどで姉が車で向かいに来て父を運んで行った。姉は車の中からかつて自分の住んでいた変わり果てた家を見、
「早く売ってしまえばよかったのにさ。何に拘ってんだよ」
と父に言った。父は笑いながら、そうだよなあ、と受け流した。姉の乾いた感情が心に擦れて少し痛かった。

父は翌日彼女の微笑むスナップ写真をキンコーズに持ち込んで、できるうる限りの大きさに引き伸ばした。姉の広くない家に憚りなく特大パネルを飾っては毎朝手を合わせたという。
「縁起のいい感じに見えない。あの写真のコ、死んだんじゃないんだよね」
姉は電話の向こうで溜息をついていた。
父は完全に過去に蓄えた栄養で生き始めた。毎日毎日彼女と過ごした幸せな日々の思い出話しかしなくなった。終始笑みをたたえて、瞳は遠くを見つめ、フワフワした足取りで。

廃屋ネイル(7)へ続く


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