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【小説】廃屋ネイル(1/8)


会社は飛ぶ鳥跡を思い切り濁して辞めてやった。
午後二時、唐突に勢いよく立ち上がり事務所を出た。電話が鳴り続けていたがそんなのは無視だ。ロッカーにあった私服を紙袋に詰め込んで制服のまま更衣室を出た。出る間際に見えた姿見に映った自分はかなりイタかった。
ピンクのチェックのベストにベビーピンクのリボンタイ。ほうれい線の目立ち始めたくすんだ肌の四十二歳が似合う格好ではない。このセレクトをした責任者はこの残酷な事態を予測できなかったのだろうか。いや、予測したのだ。きっとわかっていてそうしているのだ。その戦略にまんまとはまり、流れに抗うことなく何かを納得させられ、私は派遣契約満了になる。
どのみちあと二カ月。私は正社員採用された新人の川村さんに引き継ぎをして辞めさせられる人材だった。ならばもう事に大差はない。明日からもう会社には行かないと決めた。
川村さんには悪いなと思った。彼女には罪が無い。際立って可愛い顔をしているわけではないけれど、素直で、ちょうどいいタイミングでほどよく笑えて、確認するべきところは臆せずする。今後、果敢に出来の悪い上司に挑んでいくことだろう。それも周りが笑顔をほころばさずにはいられない健気さを保ちつつ。
そんないい子だったから、私の後始末に翻弄されるのを想像するとかわいそうではあった。だが、あのくらいの仕事ならばすぐに慣れる。引き継ぎなどはせず、このさい業務革新でもしたら良い。変にやりかたなどを教えてしまっては川村さんの長所が活かせない。この機会に川村さんのフラットな目でフィルターにかけ、吟味し、いらない仕事は捨てる。そして新たに本当に必要なことに力を注ぐ。それが正解だ、と私は思い、結局会社のためになっていることに気づいた。

そうして会社を捨てたその日の夜、私は恋人に捨てられた。
「他に好きな人ができてしまった」
漫画では確かにそのセリフならば見ないこともない。でも現実にはわざわざ相手を傷つけようとでもしない限りそんな言葉を人は発しない。
会社の環境に突然ぶち切れて唐突に辞め、ものすごくすっきりせいせいして、その潔さに気高い誇りさえ持っていた心が、そのたったひとことでうちのめされた。
渡辺さんは物音一つしないダイニングにひっそり座って私の帰りを待っていた。別れを告げるためだけに待っていた。
ひとりで生きていけない状況にでもなれば渡辺さんが同情して結婚してくれるのではないかというあさはかな思いが私には確かにあった。今どきそういった時代錯誤な考えをして罰が当たったのか。
聞いてもないのに渡辺さんは新しい彼女の名前を告げた。
「仙道千夏。ああ、あの子」
バカみたいにその名をおうむ返しし、私は薄気味悪い平静さを装う。呟いた声はかすれて末尾がほとんど音にならない。
仙道千夏はかつて職場で隣の席に座っていた営業事務の若い女だ。すぐ会社を辞めていったわりに覚えているのは好きになれないという感情が強かったからだった。
渡辺さんは会社に出入りしていたオフィスコーヒーの販売業者だった。当時から千夏が渡辺さんとコンタクトを取っていたとしても何らおかしな話ではない。
「仙道さんと一緒に住むの?」
「うん」
「ここで?」
「いや、引っ越すよ。ルミちゃんとの思い出がありすぎて、ここでは暮らせない」
思い出といっても一緒に住み始めてからは三ヶ月しか経っていない。
渡辺さんと向かい合って座ったものの、事に向き合うことができずテーブルの上に乗せた自分の手を見つめた。昨日の夜に塗り直したばかりのネイルはこれまでで一番完成度が高かった。
ブルーのグラデーションに白のラインストーンを星のようにちりばめた。ひとつひとつをウッドスティックで吸着し、呼吸も忘れるほどに爪という小さな世界に集中する。利き手ではない左手で右の爪を盛るのももう全然平気だ。
そこから別世界が広がっている。艶めいてきらきらして、指先こそが細やかな美しい所作を生み出している。
渡辺さんと初めて会った日、彼は私のネイルを見て言った。
「綺麗な爪ですね」
あの日の朝、眠気を覚まそうと私はドリップコーヒーの自販機のボタンを押した。取り出したカップの底には液体ではなく、茶色い凝固したものがねっとりこびりついていただけだった。私は自販機に貼ってあるシールの番号に電話をかけ、業者が来るまでの間煙草を吸って待っていた。
そこに現れたのが渡辺さんだった。眼鏡をかけた細面の男はたいした挨拶もしないまま自販機の前に座り込みもくもくと点検を始め、私はただ平坦な背中と寂しげな毛髪を見ていた。終わると渡辺さんは作業完了書のサインを求めた。黙ってシャチハタを押して渡すと、彼は小さな声で綺麗な爪ですね、と私のネイルを褒めた。
煙草で黄色くなった歯、乾燥した肌にかすれた声。切れ毛のひどい髪。厚塗りマスカラのせいで抜け落ちたまつ毛。コンプレックスだらけの私にはその言葉は一撃だ。
それから時折彼がメンテナンスで訪れるのを見かけた。喫煙室で休憩していると、ちょうどその自動販売機が見えるのだ。喫煙室にいることは知られたくなくて、そっとトイレに行って香水をふってから偶然を装って彼に近寄った。顔を見るたび渡辺さんは私の毎回変わるネイルを褒めた。
自分を認める言葉をかけてくれる渡辺さんを特別な目で見ずにはいられなかった。食事に誘ったのは私からだ。渡辺さんは断らなかった。回転寿司に行ったり、会社帰りにお茶をしたり、絶対に自分では行こうとは考えつかないであろう美術館に連れて行ってもらったり、家電好きな渡辺さんに付き合って店を回ったりした。
渡辺さんは私を好きだとは言わなかった。だからある日渡辺さんの家に押しかけて、甲斐甲斐しく食事を作った。そして泊まった。渡辺さんは拒絶しなかった。
自分の住んでいた賃貸マンションを解約して渡辺さんの部屋に住み始めた。渡辺さんは私をいったん受け入れはしたものの過ちに程なくして気がつき、きっちり軌道修正をしたのだ。
渡辺さんは仙道千夏を選んだ。渡辺さんの思う、渡辺さんがそうだと信じて疑わない、正真正銘一点の曇りもない女性らしい女性。自分とは正反対すぎて戦う気力もわいてこない。
仙道千夏は女子目線からすればすがすがしいほど徹底的に好感が持てない。でも渡辺さんの目にはそう見えていないのだ。
千夏は合コンでは誕生日プレゼントには米が欲しいと発言し、そこに居合わせた初対面の男どもに暗に自分が自炊をしていることをほのめかす。さぞかし家庭的な女なのだろうと想像をさせる小技を持つ女だ。
髪をふわふわさせていて、顔はかわいいのだかかわいくないのだかわからない微妙なところではあったが、たいして重くもないものを男性社員に運ばせては甘い声でお礼を言い、下ネタを受け流すのも上手かった。会社ではそれなりにもてはやされ、男性で千夏のことを悪く言う人はいなかった。
しかし仕事は非常に適当で、定時に帰るためだけにこなしているのでミスが絶えない。そのくせ責任逃れは平気で、周りがフォローしていることを当たり前だと思っていて、そうやって仕事がこなされていくものだと思っているふしがあった。仕事はしないくせに、やたらデスクを飾りたがり、ビニールカバーの下には天使の切絵をちりばめて微笑んだ。私にはゴミにしか見えなかった。
そして、私のネイルが派手だとダメ出しをした。今どきはそんなの流行らないですよ、短い爪にクリアなのが男性にも受けるんですよ、と笑顔で言った。親切心らしかった。
渡辺さんは千夏のことをナチュラルボーン清楚と信じている。見たいように彼女のことを見ている。自分勝手に理想だと思い込んでいる。世の中はそんな勘違いで構成されているんだな、と思う。
穏便に素直に抵抗も一切無くふられて、仙道千夏という嫌な女を思い出したくもないのに思い出し、やり場のない気持ちのまま仕方なく渡辺さんと暮らしたマンションを出て実家に向かった。
「なんだこれ」
約十年ぶりに実家を目の前にした私は思わず呟いた。
そう。思えば不幸の兆しは前々から確かにあった。日常の身の周りにあるものが次々と壊れていくのだ。
デジカメは何度電源を入れても歯がゆい機械音を奏でて切れ、ドライヤーは火を吹き、悲しくも何かしらの期待を抱いて購入した美顔器具など、まだ二度しか使っていないのにナノスチームを放出しなくなった。やっても無駄ですよと言われている気がした。
私の周りのものは全部壊れていく。物も、渡辺さんも、会社も、家も。
実家はゴミ屋敷になっていた。

続く


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