【小説】廃屋ネイル(4/8)
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【第四話】
汚れを落とすという目的だけならば人は風呂には入らない。贅沢にあふれるほどに湯船に湯を満たし、どこにも力を入れることなくただただ体は解放された。毛穴は開ききり、毒素がH2Oに染み出していくのがわかる。体が無限に広がるこの感じ。人の体は七十%が水でできている。だから人の体は水に親和するのか。
ユニットバスのヘリに頭を乗せ浮力にまかせて、死体のマネー、とばかなことを考えながら体を遊ばせた。息を吸うとふわりと浮かび、吐くと静かに沈む。肺の存在を明確に感じとって、皮肉なことに、そんなことをすればするほど生きている実感がわいてくる。
風呂からあがって洗面台で髪を乾かしていると、姉が何かを企むような顔をして近寄ってきた。何も企んでいるわけではないのだろうが、そういう顔だちなのだ。案の定、ネイルをして欲しいと言ってきた。ドライヤーの音で消されてほとんど聞こえなかったが、いつものことなので分かっていた。
そしてそのつもりで道具を持ってきていた。代わりにしばらく居候させてもらえないかという企みがこちらにはある。
考えてみれば私は小さい頃からビーズ細工だのリリアンだの、色の綺麗な小さなものに異常に心を奪われていた。姉はそういったものが苦手で興味を示さず、よくゴミ扱いされて喧嘩した。しかし大人になって私がネイルを覚えたとたんに都合よく姉は翻り、顎を上げ、手の甲を突き付け、はい、シンデレラ、私の爪を綺麗にするのよ、と命令した。姉の態度は気に入らなかったが私はその作業が嫌ではなかった。姉の望み通りに私はシンデレラになり、自分好みの緻密な世界を姉の指先に作り上げることを楽しんだ。
姉の長い爪にゴールドのブリオンをひとつひとつ丁寧に乗せ終わり、集中から解き放たれると同時に私は口を開いた。
「あのおやじはいったいどうしたのだ」
「あー歯科助手ね」
姉の声は私と似ていて低くてハスキーだ。母もこうなのでこれは遺伝なのだろう。
「なんだ、ねーさん知ってたの?」
「知ってるよお。居酒屋で逆ナンされたとか、嬉しそうに言ってたから。ただ『煙草を落としましたよ』って手渡しされただけなのにね」
「へええ。あいつはそれを好意だととらえたんだな。天才的楽観思考の持ち主だ。そこは褒めたたえるべきなのかもしれん」
「ねえ、このピンクの大きい石も人差し指にだけして。ちゃんとお金払うからさ。こういうのってけっこうするんでしょ」
そう言ってネイルストーンが入ったアクリルケースをガサガサ揺さぶる。直販購入したものといっても姉が選んだスクエアストーンは彼女の言うとおり決して安くはなかった。
「ちょっと、じっとしててよっ。怖いわ。崩れても知らないよ」
「はいはい」
「オヤジの話してんの。ごめん、ねーさんにとってはもうすっかりどうでもいいことだろうけど、私にはホットなニュースなんでね。はいUVライト。手入れて」
「はいはい」
「一緒に住んでるのは、事実なんだよね?」
「そうみたいねー」
「不思議だわ。あの父と一緒に住もうと思う女の気持ちが全くわからない。七十五歳のおじいちゃんだよ。美しい歯科助手があの男に何を見出してるのだか、私にはさっぱりわからない」
扉が開く音がした。姉の娘の花子が中学校から帰ってきた。
「おなかすいたー」
ハリのある声が築三十年の賃貸マンションに響き渡り、続いてダイニングキッチンを歩く振動がリビングにまで伝わった。
「お邪魔してまーす」
水分の無い自分の声と対照的に花子の声は果物みたいに潤いに満ちている。
「ルミちゃんいらっしゃい!」
発達した胸に引っ張られてセーラー服の裾が上がり、アンダーシャツが丸見えになった。こんな動作一つで脇腹が露わになるワイセツな衣服がなぜいつまでたっても義務付けられているのか。
「いいなあネイル! 花子にもやって」
「いいよー。ちょっとー、大きくなったねー」
横に……と言おうと思ったがそれを気にして無理なダイエットされたら責任取れない。咽喉元に力を入れて慌てて止めた。それにしたって食べたものが効率よく脂肪と筋肉になるお年頃なのだろう、格闘家ばりに体格がいいのだ。
「もうね、この子、どうにかして。男の子と平気で喧嘩したりする。この体でしょ。勝つんだってさ、男の子に。小学生ならわかるけど、もう中学生だよ」
姉は固定されて動かない腕の代わりに、グロスを塗った唇を細かく動かした。
「これ終わったら花子にもやってあげるね。どれがいいか、これ見て考えて」
私は傍らのネイル雑誌を渡した。頬の肉にえくぼができる。かわいいではないか。
母の着替えて来なさいといういいつけを聞いているのか聞いていないのか、私が百均で買ってきた芋けんぴの袋をわしづかみ、部屋を出て行った。
「あのこ、ほんと変なもん好きなんだよ。酢昆布とか、麩菓子とか。おばあちゃん似かねーその辺は」
「あー」
おばあちゃん、というのはつまり私達姉妹にとっては母親だ。
「かーさんって、まだ店やってんだよね?」
「それも知らないの? とっくにやってないって」
「そーなの!?」
本当に知らなかった。最終手段として母が隣町でやっているスナックを手伝って食いつなぐつもりでいたのだが道が断たれた。
「なーんだ店閉めたんだー」
私が心の底から落胆すると姉はさっと顔いろを変えた。
「なんで? もしかしてあんた会社辞めた?」
さすが姉。私は黙って頷く。
「やっぱりそーなの? 平日から来るなんておかしいと思った。今何してんの?」
「何にもしてない」
「まあ羨ましい」
ちっとも羨ましくなさそうに言った。ついでに私は渡辺さんにも追い出されたことを話した。姉はバカダネー、と楽しそうにさんざん笑ってから、真剣に話を聞く態勢に切り替えた。
「で、どうすんの?」
「実家があんな廃墟になってるとも思ってなかったし、父は父だし、頼れるのはねーさんだけ」
「マジで? 困るなあ。頼られたくないなあ」
「冷たいね」
「だって現実、この部屋じゃさ。ほんとに困ったらそりゃ、寝るスペース貸すくらいいいけど」
「わかった。いい、いい。とりあえず、かーさんのとこ行ってくる」
「そうそう、私の同級生がさ、こないだ結婚したんだけど、ほらあれ、コンカツサイトで知り合った人だったよ。そういう道もあるじゃん」
「今さら? コンカツって言葉すら久しぶりに聞いた」
「就職活動の一環でしょ。プライドは捨てなさい。ブサイクで金持ちの淋しげな独身中年って案外いるよ。あんたでもやりようによってはイケるって」
こんな乾いた思想だからこそ水商売ができるのか。姉は熟キャバで昼夜を問わず働けるときに働けるだけ働き、きちんと一人の子を養っている。
私は低いトーンで返事をし、姉の望んだスクエアストーンをツイザーでつまんだ。
終わるとお金を受け取った。ネイル代、と姉は言った。いつもはそんなこと言わないくせに。
「情けないなあ」
「情けないと思うなら早く働く。それか結婚ね」
そう言われて渡辺さんの言葉が浮かぶ。
いつだったか。いざとなったら面倒見るつもりでいるよ。渡辺さんは確かにそう言ったのだ。決して押しつけがましくなく、池に笹舟をそっと浮かべるように、優しく。
あれは結婚という意味ではなかったのか、それとも単純に私を喜ばそうとして言っただけなのか、いずれにせよそのとき自分がどう答えたのか、その記憶が残っていない。素直に嬉しそうに笑い返したとは到底思えない。おそらく高揚感を得るよりも前に、自分には似つかわしくない宝石を身に付けたようなきまりの悪さに耐えられず、不可解なこわばった怖い顔を見せつけて彼に複雑な思いをさせたのではなかったか。
要するに、目の間に起こる幸福な瞬間を幸福だと認識する力が備わっていないのだ。幸せもチャンスも掴む才能がない。そんな積み重ねが私から彼を離れさせたのかもしれない。
面倒見るって言ったでしょ! 責任取ってよ! なんてあの別れ際に言っていたらどうだったのだろう。そんな再現ドラマみたいなことをする人は実際にいるのだろうか。そういう人が案外きちんと結婚しちゃうか、慰謝料をもらって逞しくすっぱり幸せになるものなのだろうか。いや、慰謝料をもらうことが幸せなことではない。幸せの定義が分からなくなった。
思考が迷走し始めたところでトレーナーとフレアスカートに着替えた花子がはにかんだ顔をして現れた。
「これにする」
ウインナーみたいな指でさし示した先にはヌーディなベースにブラックのフレンチ、先端にホログラムといった一般受けはしなさそうなデザインがあった。
「なかなか渋いセンスをしているな」
学校で注意されない程度に配慮して両手の人さし指だけにしてあげた。
「ルミちゃんありがと」
お礼を言うや否や立ち上がり、走って外に出かけて行った。友達と約束でもしているのだろう。
「ねえ、見て」
手洗いから戻ってきた姉が呼んだ。
「こっちの部屋、見て」
「なんで?」
「いいから」
ガラスの引き戸を開けると学習机とベッドに蛍光色の安雑貨が大量に置かれていて、あまり片付いていない。だが、想像を超えるものが一か所にあった。
力強い毛筆だった。三枚の習字紙に書かれた大きな文字。セロハンテープで壁に無造作に、少し斜め気味に貼られている。目に入ったその文字を私はそのまま読んだ。
「『土地』『金』『権力』……?」
「将来社長になるんだってよ」
「花子が書いたの?」
「そうなの」
姉は自分の子どもが理解できないありきたりな母親の顔をした。
「いかにもドラマの悪役の社長だね。イメージが古い気はするけど、毒食べて生きる覚悟があの子はもう生まれてるのか」
本当に私は感心したのだ。
「何を見てそう思ったんだか、今の目標はそうなんだってさ」
「何を見たって普通の中学生の女の子はこれを書けないでしょ。自分で書いたんでしょ? しかも部屋に貼るんだもんね。信念の強さというか、本気度が見える」
目の前にいたあどけない中学生は自分よりも数十倍、何百倍とこの世を豊かにする人材のような気がした。自分を棚に上げ、会社への嫌気がピークに達して突発的に辞めた私と比にならない。
昔会社の愚痴を言ったとき、渡辺さんは言った。
そんなに会社が苦痛ならそこから逃げるというのもありだよ。我慢するだけの時代はとっくに終わったんだ。
渡辺さんのその言葉がずっと残ったままいて、だから私はその言葉にすがって会社を辞めたのだ。なのに……。
結局、花子にこんな稚拙で堕落したおばさんの存在を見せてしまうことがとても良くない気がして、居候のお願いをするのはやめて姉のアパートを出た。
今日もマンキツだな、と諦めてコンクリートの階段を下りているとびりびりと脇の下が振動した。メールかと思ったら振動が止まらない。かばんに差したガラケーを取り出すと非通知の着信だ。今どきそんな非常識な電話に出られるものか。不気味なことが続く。
廃屋ネイル(5)へ続く
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