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【小説】廃屋ネイル(7/8)

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【第七話】
雨は弱々しくだらだらと三日間降り続いた。漫画喫茶から出るとようやくそれがやんでおり、湿ったビニール傘が邪魔になった。
眠り心地の良くないソファに丸まって眠り、シャワーを浴びて朝にはこの廃屋に戻る。その生活を始めてもう一ヶ月が経ってしまう。
こんな生活を私はいつまで続けるだろう。
先を考えると、その希望の無さに空恐ろしくなり、結局考えることから逃げるために昼間は廃屋の中にこもってネイルチップの制作ばかりしていた。誰にも会わない、誰とも話さない。安物の折りたたみテーブルの上には一心不乱に作成した色とりどりに輝くチップたちが大量に並べられている。
爪は聖域。過剰なデコレーションをすることを許される。子供が描くお姫様のドレスと同じだ。ゴテゴテ、フリフリ、思う存分限定された爪という枠の中にこれでもか、というくらい飾ることを許される。
ただ美しい色を塗り、繊細なパーツを組み合わせ、大小濃淡のバランス、色どりを考え、新たな世界を構築すること。それが生きるのに必要なものかと言えばそうではない。どうしてこんな無駄なものばかり作ることに私は喜びを感じているのだろうか。
余分なものほど人を楽しくさせるものだ、と言った母の言葉が浮かぶ。
窓サッシをスライドさせ、ますます無駄に葉の数を増やした裏庭の大木を見上げる。家の栄養を食らう「幸福の木」と呼ばれる木。
いいなあ、自分ばっかり、ずるいなあ、と語りかけると突風が吹き、葉から大量な水滴が吹き飛ばされた。
朝だというのに空気は黄土色で薄暗かった。また雨が降るのかもしれない。
小鳥の大群が機敏に羽をはばたかせ、どこかの国の民族楽器みたいな音色を激しく細かく打ち鳴らし、旋回を繰り返し、やがて遠くへ飛んで行った。
「あ」
久しぶりにパーカーのポケットに入れていた携帯が震えた。充電することさえもう不要かと思っていたところだ。
「今どこですか?」
太一だった。
「今から行っていいですか?」
何事にも抗うのが面倒になって、どーぞ、と力なく返事すると、太一は三十分もしないうちにやって来た。
「案の定ですよ」
私が玄関をあけてやると太一は挨拶もなくいきなり言った。
「何が」
「めちゃくちゃ評判がいいです。私にもやってって言う女の子がいっぱいです」
「そりゃタダならやりたい人はいるだろうよ」
「ルミさん、モニターでも何でもいいから、それを利用して腕上げてください」
玄関で足をそろえたまま、そこを動く気配がない。走ってきたのか額は汗ばみ、息が上がっている。ただそれを早く伝えたいがためにと言わんばかりに。
「なんで?」
「お金出します」
「は?」
「貯金たくさんあります。ネイルサロン開きましょ」
「馬鹿じゃないの」
「僕には目標があったんです。たくさんバイトしてだから貯金していました」
「その大切なお金を使うわけ?」
「だから、会社を作るという目標があって貯めてたんですよ」
人を説得する目力みたいなものは無い。目は半分閉じている。私からは少し見下ろす位置にいるからだろうが、まつ毛が瞳にかかって、虚ろにさえ見えた。
中に入ってもらおうとも思ったが今部屋の中には大量に制作した色とりどりのチップがある。太一がそれを見たら太一の思いつきが実現に近づく。彼の都合のいいように話はすすんでしまうのだ。
しばらく黙ったまま見つめあう。負けた私が沈黙を割る。
「何、アンタネイルにもともと興味があったってことなの?」
「いいえ。何をするかは決めてなかった。でも何かするぞ、と思って貯めてた。で、ようやく今、ネイルサロンっていいかなって思って」
ぼくはしょうらいやきゅうせんしゅになりたいです。子供が無邪気に言う、あれと同じレベルだ。私は戸惑い、頭をグシャグシャと掻いた。これは真剣なのか、冗談なのか? 真剣ならばそれこそタチが悪い。
「上がっていいですか」
太一は私の説得に時間をかけるという意思を示した。私も腹をくくった。
「どうぞ。ただ、上がってもらっても屋根があるだけの話でね、相変わらず水もガスも、電気も無い。よってお茶も出せない。できるのはネイルだけだよ、それ、落としとく?」
「まだ、いいです。これによって波動が起ります。大事です、こういうの……あ」
低いテーブルに綺麗に並んだチップを見て太一は声をあげ、ニタリと笑ってこちらを見た。
「いいじゃないですか。これ、売れますよ。ネットで売りましょう。俺やりますよ」
「……確かにね」
そうなのだ。売れたらそりゃ、都合がいい。そして太一ならばその道筋を簡単に作ってくれるのだ。
私は煙草に火をつけた。試しに太一にも促してみたが断られた。太一は相変わらず衣服の汚れを気にする素振りも見せず、躊躇なく畳の上に腰をおろし、ネイルチップを手に取り丁寧に眺めている。
「しかしさ」
と言って私は煙を吐いた。天井にうっすら白濁が揺らぐ。
「そんな曖昧な未来設定のまま、あんたみたいに逞しく貯金できるっていうのは逆に凄いな。よっぽどお前にとっては今が色あせて見えるんだろうな。今をさしおいて未来にばっかり思いを託せるなんて」
「確かにどんな会社にするかは決めていなかったけど、とにかくその時のために貯めてたの。で、これって決めた。いいでしょ。後悔しないよ」
「簡単に言うなあ。うまくいきっこない」
私は力なく手を振った。
「僕のこと信じられない?」
太一は眼鏡を曇らせた。顔の温度が上がったようだ。
「聞いてくれますか。意外と真剣なんですよ。ちゃんと勉強してサロンやったらいいじゃん。それだけできるんだから、すぐでしょ」
「もうね、ネイルのブームは去ってるって聞いたよ」
悲しいことに私の爪を非難した仙道千夏の呪縛から私は逃れられない。
「そうかなあ。食いつき良かったよ」
「それに私のトシを考えよ」
「じゃあさ、例えばだけどさ、高齢者向けのサロンにするとかでさ、差別化するんだよ」
太一には簡単に負ける気配が無い。じゃあ私だって、だ。
「あのね、爪だって歳をとるんだ。爪ってね、案外弱いんだよ。凄くケアは必要だし、高齢者には向かないと思うよ」
「もしそれが本当なら、それこそ改善する余地あり、変わる余地ありってことじゃないですか。爪のケアにも手かけて、薬剤関係にも手を伸ばしたら競合と差別化できるじゃん。ね、きっとみんな気付いてないんだ。ほら、六十とか七十歳前後の人なんて、知らない人もいっぱいいると思うよ」
「やってる人はもうとっくにやってるって、高齢者だろうが既に」
「だからさー、もっと親しみやすいレベルに落とすんだって。自分とは関係ないとか、やるもんじゃないとかって勝手に決めつけるのは偏見なんだよね。知らないだけなんだよ。あの爪じゃゴハン作れないっていう偏見。やってみたら分かるもんね、マニキュアするよりよっぽど剥がれないし、米だって磨げるじゃん。それに本で読んだよ。高齢者向けのメンタルヘルスとしてネイルとかお化粧とかって既にあるらしいね」
「確かに、テレビで観たことはあるな」
「おばあちゃんだって美容院は行くしょ。パーマかけてる間にやってあげるとかもありだし、ああ、そういうのはもうあるのか。とにかくよく知らずに敬遠している人は多いと思う。だからそういう人にもっと広めてみる。楽しいこと分かればやる人は増える。やらない人はやらない。それでいい。とにかくまだ市場は広がるような気がするんだ。そうすれば大量仕入れできて材料費の単価が下がると思うし」
「なんか分からんけど、よく知ってるんだな」
全部には頷けないがその壮大な考えに感心はした。
「僕がネイルしてたから、女の子がそういう情報を与えてくれました」
「君は小さな情報をただの情報ととらえないんだな。重要なヒントと次へのステップとしてくみ取るんだな。凄い凄い」
手を叩いて馬鹿にしてやると太一はもともとなで肩な肩をさらに落として、並んだチップに再び視線をやった。
「ねえ、やっぱり、これ凄いじゃん。なにこれ、このぼやっとした模様とか。どーやってやるの?」
「ああ、エアブラシね、コンプレッサー使うんだ」
「プラモデルみたいだなー。おもしれー」
体がだるくなってきて私は横になった。思えば生理が近い。最近血液を作るようなまともなものなど食べていなかった。太一の言葉があまり頭の奥にまで入ってこない。
「これ、ネットでまあまあいい値で売れるんじゃない?」
「あんたが売ってくれるなら、確かに助かる」
そう言って目を閉じた。太一の言葉がありがたくないわけではない。でも私には何もかもがうまくいかないという過去がある。成功している絵が描けない。もしも全然売れないという事実を突き付けられたらそれこそ悲しい。簡単には心が開かないのだ。
「ほんとですか? ほんとに俺、売りますよ」
「うん助かるよ……」
「ルミさん」
「ごめん。なんか、ほんとに眠くなってきた」
「嘘でしょ」
私は黙りこんだ。
「……いいやもう。勝手な独り言ですから。聞かなくていいですよ」
ちょっと強めの口調で太一は言った。
しばらく間があってから、闇の中に太一の少し高めの良く通る声が漂った。言葉がまるで漫画のオノマトペみたいに、文字がくっきり浮かび上がって見えた。
このコはちゃんと自分の思い言語化する癖がついている。話し方がイタについている。
「俺たちの求めてるのはさ……」
太一の話は長かった。途中、本当に眠ってやるつもりだった。でも眠れなかった。
「俺たちの求めているのはさ、もうモノじゃないんですよ、ね。家の中で不要なゴミの中に埋もれて生きる老人がいるけど、幸せを追い求めた結果、あれでしょ。本人はそりゃ、物のない時代の人だから物に対する憧れがあって、なんでもかんでも所有することが快楽だったのかもしれない。でも、もう気付き始めていると思うけど、その先幸せ? 所有することで一瞬の快楽は生まれるんだろう。だけどあとは劣化と幻滅ばかりにさいなまれて、処理しきれなくて、粗大ゴミばっかりが溢れて、ほんとに宇宙に捨てに行かなくちゃいけなくなるよ。
 だからネイルっていいなあって思うんだ。ネイルっていうのはその新しく生まれた世界観が爪に備わっていることが幸福なんだね。前にルミさんが言ってたように、小鳥を爪に飼っているみたいにかわいくてかわいくてしかたないんだなあって思うよ。そういうの、もっと提供したらさ、単純に幸福と感じる人が増えるわけでしょ。日本が幸せになるんだよ」
太一の話はネイルサロンに終わらず、若い女性を派遣する家政婦事業だの、男女の出会い提供サービスだの、サプリメントだの、起業家としての夢は想像を超えて具体的でしっかりビジョンがあった。
結局ノンフィクションとしてしか私の頭には受け入れられはせず、ダイハードを映画館で観た後みたいに興奮していた。顔にうっすら汗をかいて心臓はバクバクしていた。
しかしこのコはまだ十九歳で、それほど多くの経験をしているわけでもないのになぜこんなことを思いつくのだろう。どうしてもっと自分の個人の幸せを追い求める単純な少年として生きることを選ばないのだろうか。
私は起き上がり寝ぐせのついた短い髪のままセブンスターに火を付けた。
「あなたがそんなに一生懸命になれる理由はなんなんだ。単なる金もうけ?」
我ながら、びっくりするほど声が乾燥してガサガサだった。
「いいえ」
「じゃあなんだ」
「僕は大きいこと言いますよ」
「はいどーぞ」
「日本を救いたいんです」
「戦隊ヒーローか」
「あ、でもそこが基本かも」
そのタイミングで煙を思い切り吐いてやった。太一は分かりやすく顔をしかめ、手で仰いだ。
「煙草なんてなんで吸うの? 害しかないじゃん」
「正論だな」
「ごめんね。正論は人を傷つけるんだよね」
「本で読んだのか」
「うん。あ、いや、テレビだったかな、お笑い芸人が言ってたような気がする」
「誰かが正論を言ってくれないと、何が正しいかもわかんなくなるから、それでいいんだよ。謝らなくていい」
「すげえじゃん。ルミさんこそ、読書家だったりして」
「いや、知識は子どもの頃から漫画とテレビオンリーだな。よく観てたほうだと思う。でも私はお別に姫様や魔法使いになりたいとは思わなかったな。そう思うと戦隊ヒーローに本気でなろうとしているあんたってなかなかだね。そんなボーっとした顔してさ」
「俺さー、ぼーっとしているみたいに時々思われるんだけどさ、めちゃくちゃ考えているときほど、はたから見たら何も考えていないように見えるのかもしれないよ」
なるほど、太一の心は現代には無いのだ。未来に立って生きている。だから遠い目をする。
私は凝った首を回した。半歩遅れて揺れ動き私にまとわりつく愛しい長い髪はもう無い。
ふと、急に思い立った。
「あー、なんか煮詰まったな。酒でも飲むか」
灰皿に煙草を押しつけ立ち上がり、我ながら良い案だ、と明るい気分になった。父と飲んだ久々の泡の味の喜びが再び蘇る。
「僕未成年ですよ」
「そーだったな」
本当に忘れていた。
「ノンアルでいいじゃん、飲もう。コンビニに買いにいこ!」
「まだ昼前ですけど」
おしゃれな腕時計を見る。
「だからいいんだろーが」
半ば無理やり太一を引っ張る形で外に出ると小雨が降っていた。傘が無くても平気な程度だ。乾燥した肌にこの湿気はむしろありがたかった。遠くで風の音がしていた。
見ると太一の前髪が絶妙に滑稽な形状でうねっている。クセ毛が強いのだ。
「前髪怖っ。なんか、ブサイクだなあ」
ひどいなあ、と言いつつ太一は笑っている。こんな言葉にも傷つかない十九歳。
コンビニに到着するとまずはATMに向かった。タッチパネルに触れる。ネイルのデコレーションがきびきび動く。唯一の私の光がきらめく。長い爪でも全然苦にならない。
給与が一月分振り込まれていた。もうこれ以上増える予定はない。このままの生活をしていたら本当に私は朽ち果てる。チップを売ることは前向きに考えなければならない。酒を飲んだら素直にそれを頼めるだろうか。
ビールからハイボールからチューハイから、とにかくいろいろな種類の缶の酒を考えずに籠に入れた。太一はペットボトルのコーラを一本籠に入れた。
ホットスナックをレジでオーダーし、買い物を終えてコンビニを出ると雨が強くなっていた。涼しくなって気分が良い。引き返してビニール傘を一本買い、ふざけて二人で押し合いながら歩いた。どちらも結局ずぶ濡れになった。もうこのままぐちゃぐちゃになりたくて、私は袋から発泡酒の缶を取り出した。傘は太一に持たせ、歩きながらぐびぐび飲んだ。
「そんなに飲みたくなるもんなの?」
 純粋に質問する太一は雨で額が広く見え、余計に老けて見えた。少しでもイケてる感じに直してやろうと思って束になった髪に手を伸ばす。指の腹でバサバサと遊ばせてやった。太一は何をされているのか分かっていないようで怪訝な顔をしていた。太一の髪はちっとも思い通りにはならず、私はすぐに諦めてまた飲んだ。その缶を持つ手のネイルが目に入ったのか太一は言った。
「さっきATMで見てたよね、爪」
「そーだったか」
「『アガル』んでしょ? 綺麗な爪を見ると」
 アガル。その三文字に込められた緻密で繊細な感情を私には説明することができない。世に普及し始めて間もないその言葉の便利さをつくづく思った。そしてそれを生み出した自分よりも下の世代に感心する。
「そういうルミさんは俺、かわいいと思う」
私はどう答えていいかわからない。曖昧に笑う。まだ酔えていないのだ。
「ねえ、どうして、何がきっかけでそういうネイルをし始めたの?」
「どうして? どうしてかねー」
本当は心で即答していた。自分の中に色が無いから。せめて体の一部に彩りが欲しいんだ。そんな言葉を泡と一緒に飲みこむ。こんな子どもに弱音を吐くわけにはいかない。
「多分周りがやってたからでしょ」

廃屋ネイル(8)へ続く



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