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【小説】廃屋ネイル(8/8)

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【第八話 最終章】
廃屋に到着する頃にはますます雲は厚く辺りは暗くなり、家を守るガラクタたちが破壊しそうな勢いで雨に叩きつけられていた。ポリ素材の赤いバケツは白く色あせ、原型が無いほどにボロボロに砕け散っている。
中に入ると屋根の穴から雨水が滴り落ちていた。水浸しになったカーペットにバシャバシャと音をたててしぶきがあがり、冷たい風が巻き起こる。そこはもう家の中ではない、屋外なのだと思い込めばどうということもない。
太一はノンアルコールビールを飲んではいちいち顔をしかめ、時折スマホをいじり、何かしらに返信をしつつ、私の存在を無視する時間もありつつ、そんなに盛り上がる感じでもなく淡々と過ごした。私はハイペースでアルコールを入れていたと思う。しかし先に倒れたのは太一だった。朝礼で貧血をおこした小学生みたいに前触れが無く、無防備に床に背中を叩きつけた。あおむけで目を閉じ動かない。目の下が赤くなっている。大丈夫かな? としばらく見ていたら、ひとつ深い息をついた。
「ノンアルっていってもアルコールゼロじゃないんでしょ? なんか、酔ったと思う、俺」
 喋った。大丈夫なようだった。
「ほんと? ゼロでしょ」
私は太一の飲んでいる缶を奪い、真面目に成分を眺めた。すると太一は不意に私の背中側に回り、後ろからおっぱいを触って来た。本当に酔ったのかもしれない。脳は案外騙されやすいのだ。
「ルミさん、やっわらけー」
「先端に発触れるな。変な気分になったら困る」
「はい」
「本当だったらレクチャーとかしてあげたらいいんだろうなあ」
「気合入れてもう少し触っちゃ、だめですか?」
「だめだな」
掌の生温かさがサマーニットの上からじんわり伝わる。
「なんでですか」
「法律が許さない」
「ありました? そんな法律」
「私の中の法律。はい、終わりね」
太一の手を引き剥がすと、ぐるりと強い力で腰を掴まれ旋回させられた。
「ねえねえ、マッサージ、俺うまいんだ。ほら手、貸して」
揉みほぐされていると何も言葉が出てこなくなり、マッサージと優しさを素直に受け止めた。こんなあるがまま感など味わったことがあったろうか。嬉しい。このまま身を任せているだけで、頑張らなくても幸せになれたらいいのに。
調子づいて傍らに置きっぱなしにしていたマッサージクリームに太一は手を伸ばし、私の手首から肘までを手のひらを強く当てて何度も往復させた。行きは痛いほどに力を込め、帰りは優しくさするだけ。私が前に太一にやってあげたことを真似ているのだ。クリームの甘い香りが幸福感を増幅する。リンパがすり潰されていく。滞っていたものがどんどん流れていく。このリラックスの中で覚醒した私の脳は、ある事象に気がついた。
それに気付くと、日本を救うべく現れたヒーローである太一と自分の組み合わせは出来過ぎで、笑いが込み上げた。
そうか。
実は私はとんでもなくお姫様願望の塊なんじゃないのか。
何にもしなくてもふわふわ、キラキラに囲まれて、幸せに生きていける人になれるもんならなりたいと思っている。ゴテゴテのネイルにもはまるし、優しく私を褒めて笑みをたたえる渡辺さんに執着するし、仕事も簡単に辞めるし。そうか、自覚が無かっただけ。お姫様になりたいのだ。
「短い髪、とても似合ってるね」
憎いタイミングで言うなあ。まるで息子に慰められる母だ。この子は大きくなったんだな、と感動してしまう。驚いたことに涙が出た。鎖骨より下の部分から上に向かって強い圧迫があり、それに抵抗する鼻の奥が緊迫して充血する。その緊迫が限界を超え、じわりと出た。涙が出たということは既に弛緩しているということだ。案外健康なのだ。
「お金が無いのはつらいね。チップ売ってくれる?」
そう。プライドは捨てるのだ。お姫様になんかなっていられないのだ。
「そうしようそうしよう。どんどん素敵なの作ってね」
ぐいぐいと力を込めながら太一は言った。
「自分は天才だと思い込むんだとユーミンが言ってた。だからさ、ルミさんもそうして、自分は天才なんだって思って作って」
「そんなふうに素直なところは、アナタ意外と凡人だわ」
何も言わず太一は笑っている。なんだこの天使。何か企みがあるのでなければ納得もできない。
「あんたはどうして私が目に入ったんだろう。言ってたじゃん、必要なものしか目に飛び込んでこないって」
壊れると弛緩はとどまることを知らない。涙がボロボロ出て、その勢いにまかせてすらすら言葉が出てくる。
「理屈じゃないよね。本当に必要だったんだと思うよ。俺、ネイルしてもらって良かったし」
「そうなんかねえ」
「俺、淡い期待はしない。でも強い願望は抱くよ。そうすれば必要なものにしかセンサーが働かなくなる」
「偉いなあ。君は世の中が自分の努力次第でなんとかなるときちんと信じているんだな」
「そんなことはないけど」
「羨ましいよ」
ついこの間まで女は二十五歳を過ぎると会社を辞めさせられる時代だったなんて、太一は知らないのかもしれない。女は働くもんではない、っていう時代に私は生きていた。そんな私の気持ちなんて太一は理解できないだろう。たった二十年の間にそれはすっかり変わってしまったのだ。
でも、もしかしたら情勢は確実に良くなっているのではないか、という気もする。私はぼんやりした世の中のルールに何となく従うしかないと思っていたのに、太一には工夫と改善の心が自然に染みついている。姉の娘の中学生の花子ですら何かしら未来に自分のやるべきことを既に見出していた。そんなこと、私はしたことが今までなかった。
「ねえ、何の音?」
ふと、太一は手を止め、怯えた目をして私を見つめた。裏庭の方から確かに異音がする。激しい雨音の隙間に、深いところから地響きがする。
「わっっ!! やべっ!」
爆音がお腹の奥に響いて激しく上下に揺れた。次の瞬間バリバリと壁が張り裂け、木くずの混ざった茶色い大量な水とともに巨大な重たいものが真上から落ちてきた。窓ガラスが粉々に割れ破片が散った。天井が割れた。一瞬の出来事だった。
太一は危険を察知するのが早かった。ぼーっする私を素早く自分の体で覆った。何が起っているのか私には分からなかった。地球が崩壊したのかと思った、なんてよく災害のあとテレビで答えている人がいる。私は思わなかった。何も考えていなかった。考える暇が無かった。
振動が停止し、激しい雨音だけが響いた。細かい水しぶきが顔に当たり、土のにおいが充満した。
「ルミさん、大丈夫?」
太一の声もまともに聞こえない。私は、うん、と頷き、少し震える太一の背中を二度タップした。その体温に安心して私はうっすら微笑んですらいた。
幸福の木が家を木端微塵、完全に崩壊させた。最後のとどめ、と言わんばかり。
もう無だ。現在、過去、未来、か。そんな歌が昔あったな、と呑気なことを思う。全て、無くなった。いや、もともと形の存在しない、頭で作り込んだだけのものでしかないのだ。偶像に拘ることはやめればいい。全然大したことには思えなかった。中途半端な希望を抱くと、むしろ人は複雑な感情に苦しめられるだけなんだな。
近所の人が通報したのか、豪雨の中微かにパトカーのサイレンが聞こえた。

太一からのメールを姉に見せた。
ルミさんのネイルチップ、ツイートしたらリツイートがまあまああったよ。そのうちホームページ作るし、とりあえずオークション出しとくね。連絡先は俺の携帯電話にしといたからルミさんを煩わすことにはならないでしょ。マージンはちょうだいね。うそうそ。冗談。
「ばっかじゃないの、あんた。オヤジと同じじゃん」
思った通り姉は笑う。姉は私の施したピーコック柄のネイルの指をくねらせ、割り箸を一本持つと指揮者みたいな仕草をした。
「それはそれ、フォロミープリーズ。さんはい」
「それはそれ」
私は素直に繰り返した。
人は強靭な心や体力を維持し続けることは難しいことなのだと知ることで、ようやく人の弱さや過ちに理解を示し許すことを覚える。それゆえ私は渡辺さんも憎んでいないし、同時に自分をも何かしらの理由をつけて許すのだ。
こんなことで思い悩んでいられるなんて本当に平和だ。四十二歳になっても、まだアホみたいに恋愛ができている自分はすごいな。


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