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【小説】廃屋ネイル(2/8)

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【第二話】

私は呆然と変わり果てたその様を見つめながら煙草を一本吸った。
敷地を囲う塀との狭い隙間には家電やら、ベニヤ板やら、植木鉢やら、壊れた水道設備やらが、そもそもの役割を捨て、オブジェとしてそこにある。その、金属や木、プラスチック等々から成るガラクタたちは姿を魔法で変えられた騎士みたいに誇り高く主を守る使命を全うしているようにも見えた。彼らは家屋の壁面を覆い隠すほどに高く積み上がり、奇跡的な固定のされかたをしていてどんな雨風が吹いてもびくともしないに違いない。ジグゾーパズルのようにきっちり隙間なくちょうどいい場所にはまり込んでいる。
吸い終えて落ち着くと、感情を抜きにして父に電話をかけた。
「何これ」
質問に父は答えず、もうそこには三年前から住んでいないと言った。
「そんなに前から? なんで言わなかったの?」
「言ってなかったか?」
「聞いてない」
「そうか、まあ、なんだ、住めないこともないぞ」
「何、このゴミ」
「俺がやったんじゃねえし」
「じゃあ誰がやったの?」
「知らん」
会話を裂断されて言葉をなくした私に向かって、父はとたんに優位に立ってまくしたてた。
「おまえが急に帰って来るなんて言うから、驚いたのはこっちだ。なんだ、え、何年帰ってないんだ? たまに電話するだけで安心して全く顔を出さないくせに、お互い様じゃないか。とにかく鍵はポストに入れておいたぞ。俺は俺で幸せにやっているから安心しろ」
ペラペラの古めかしいガラケーが粉砕するのではないかと思うくらいに七十五歳の老人の声は生命力に満ち溢れていた。
「で、アンタ、今どこにいるの?」
「彼女のおうち」
「げ、彼女いんの?」
「二十八歳、歯科助手。かわいいぞお」
俺にかまうな、俺は幸せだ、と同じことを父は何度も繰り返した。
まさか実家が無人のゴミ屋敷になっているとは思わず荷物を送ってしまっていたので、とにもかくにもその受け取りをせねばならず、恐る恐る中に入った。ゴミの山をよく見ると、昔はどこの会社でもそれが主流であったCRTモニターや、壊れたベビーカーなどがあり、我が家から出たものではないのは確かだった。おそらく壊れた洗濯機や古い箪笥を父が外部から目につくようなところに放置していたから、無人屋敷になったとたん、近所の人々にとっては既にあるゴミについでにと言わんばかり、格好の投棄場となったのだと思われた。
 ゴミの山をかきわけ前に進み、ポストから父の用意した鍵を取り出した。キティのキーホルダーがついている。いちいち若い恋人の存在をほのめかされてうんざりしつつ扉を開けた。ゴミは中には見当たらずほっとするのもつかの間、様子がおかしいのにすぐに気がついた。
家の中は洞窟のように薄暗くひんやりしていた。泥の臭いと強い湿気。廊下には砂がうっすら覆っていたので土足で中に進んだ。人が三年足らず住まないだけでここまで砂が降り積もるものだろうか。その疑問は廊下の突き当たりにあるリビングに出て解明した。
リビングの屋根には大きな穴が開いていた。バスケットボールほどの大きさだろうか。割れた屋根材が荒々しく毛羽立ち、その向こうに混じりけのない空の青が見えた。天井板の一部は大胆に剥がれ落ち、南国に生息するバナナの葉みたいに床すれすれのところで揺らめいていた。
思えば私が住んでいたころには既に雨漏りが始まっていた。竿縁天井の隙間から落ちるしずくを洗面器で受ける昭和の風景がわが家にはあった。父が屋根に登って見たところによれば雨が雨樋を伝わずに屋根の一部に溜まっていたらしく、ずっと水に浸されていれば屋根材も腐るわけだった。
ひどく杜撰な工事だ、と姉は怒り、父は軽く笑いながら言った。
「うちは戦争で焼けたんだ、そのあとにあの資材の無い時代に適当に建てた家だ、仕方のないことだ」
私は想像を巡らした。
きれぎれの滴はやがてつながり一筋の糸となり、数年の時を経、雨を受け風を受け、台風を何度か経験し屋根材はさらなる浸食を受け、集中豪雨が来れば家の中に勢いよく雨が流れ込んだことだろう。そして父はそれを黙って見ている。戦後の貧しさを体験した人の強さといえば強さだが、父には徹底的に欠落している部分があった。修復、修理をするという概念が無い。流されるのが美学みたいになっている。その手の業者には信頼を抱かなくなった父はどこにも救いを求めず、かわいそうに、家は古くなったからと言って容赦なく見捨てられ、風化が進むのをただ待つだけの廃材のかたまりになっていた。
家自体が廃材なのだから、そこが廃材置き場になるのは自然だ。人の嗅覚っていうのは偉大で、ここは捨てていいところだと認識する人が一人現れればやがてそれを真似る人が現れる。真似る人はただ真似ているだけなので罪の意識が薄く、快活に冷蔵庫や箪笥、壊れた蛇口、あらゆる「用無しになったもの」を置いていく。そんな経緯で我が家はゴミの集積所となったと思われた。
私は比較的汚れの少ない畳部屋の壁にもたれ、リビングの凄惨を冷静に眺めた。緑の絨毯は泥にまみれ、黒いカビが生えている。小さな屋根の穴を拠点に大規模な腐敗が家を支配し、木や泥や草の有機物が濃密な臭いを放っていた。
ふと、人の声が聞こえた。しばし耳を澄ます。気のせいかなと思いきやまた聞こえた。確かに誰かが自分の名前を呼んでいた。宅配業者だ。自分あてに送った荷物が届いたのだ。ダンボール箱三つの中身は衣類に化粧品、ネックピロ―、そしてネイル道具一式。持参したボストンバッグには下着と財布とガラケー。それ以外に私の所有するものは無い。
湿気を含んで重たげなカーテンの隙間からマグマ色の西日がさしこんだ。
ライフラインの無い場所で寝泊まりすることははばかられたので、しかたなく駅前の漫画喫茶まで歩きシャワーを浴びた。漫画も読まずにすぐに眠り、起きると携帯電話の時刻はは朝の九時を表示していた。飲みたいわけでもないのにフリードリンクのホットコーヒーを入れた。フレッシュを落とすと白い渦がゆっくりと揺らめいて二つの円が対称を描き、広がり、鼻の長い魔女のような顔が現れた。目がくるくる回り、鼻がさらに伸びて口から長い舌を出してくる。猛烈な勢いで嘲笑された気がした。
父が頼れないなら母、いや、その前に妹か。とりあえずの選択肢はそれくらいしかないなと結論を出して漫画喫茶を出た。
五月の街はパサパサしていた。
埃か、黄砂か、PM2.5だか何だか知らないが、空気が濃密に濁っていて前がよく見えない。手で拭ったならそこには鮮やかないろどりがあらわれるだろうか、と私はうつろに空に手を掲げた。
当たり前だが空気は拭えない。
ただネイルの鮮やかなブルーが目を覚まさせた。白濁の曇り空を背景にその造形はますます美しく、しばし指先に広がるきらめく宇宙に見とれた。
「僕ですか?」
突然声がして、見ると一人の男が私を見ていた。肌の色が白く青髭の目立つ顔だった。着ているジャケットはシワだらけでだらしない。中が空洞なのではないかと思うほどに弱々しい印象だった。三十才を越えたといったところだろうか。
目の焦点の合っていない私に向かってふわふわした男はさらに尋ねた。
「呼びました?」
我にかえり、あなたを呼んだわけじゃない、と言おうとした。だが街の中で一人弱々しく掌をかざしていた理由を説明できない。どう見ても変なのは自分だ。混乱したのか私はおかしな返答をしていた。
「そうそう、アナタ、アナタ」
大げさに振った首の動きに合わせて水分の抜けた長い髪がカシャカシャと音をたてた。
「なんすか」
男は距離感が無いのか必要以上に近寄った。それ以上来なくてヨシと私は手を突き出す。不意に指先の星空の瞬きが目にとびこんだ。思いついて咄嗟に言った。
「アンタ、ネイルやんない?」
まさか頷くわけは無いと思った。
「ネイル?」
男は意外にも話を聞く態勢を整えた。
「れ、練習台になってもらえないかなあ」
慌てて嘘を重ねる私の鮮やかな指先を男は無表情に見つめた。
予想に反して男はネイルをすることをあっさりと引き受けた。私は後に引けなくなり、少しばかり時間を潰してみようと考えを切り替えた。
眠たいのか、そういう顔なのか、男は半分目が閉じていて、その伏し目がちなまなざしがまつ毛の濃さを際立たせた。名を太一と名乗った。
歩きながら話をしてみると、軟体動物のようなつかみどころのない外見とはうらはら、発する言葉には明確な輪郭があった。
「ネイルなんてもの、男性のアンタには理解できないだろうな」
「少しでも女性を理解したいですから」
三十を超えているような男にしてはちょっと違和感を覚える発言だった。
「あんた、いくつ?」
「十九歳」
「ウソだろ」
私は驚いて歩みを止めた。
「本当です」
太一も立ち止まって私を見た。瞬きするまつ毛がバサバサ羽音をたてた。
「三十二歳くらいかと思った」
「思った事を全て正直に言う必要はないんじゃないですか?」
「そうだね」
素直に認めて歩みを続ける。
「おねえさんは? あっ、おねえさんの名前を聞いていませんでした」
「ルミでいいよ」
「いくつなんですか?」
「四十二」
「年の割に綺麗なほうだと思います」
「世慣れしてんだな、あんた」
「若い頃、あの鳥のとさかみたいな変な髪型してた世代ですっけ」
 微かに太一の口元が笑いに傾いたようにも見えたが、それには気付かなかったことにして私は会話を続けた。
「確かに。ギリギリしてたな。よく知ってるな」
「テレビで観ました。あれは変ですねー。今見ると」
「やっている方は楽しかった」
「羨ましくないなあ」
太一は腕組みをして首をかしげる。
「じゃあ、あんたの楽しいことはなんだ」
少し考えてから太一は答えた。
「惣菜が目の前で値引きシールを貼られたら楽しい、というか嬉しい」
「ふうん」
つまらない返答だな、と私は思い、そう思うととたんにニコチンを欲した。
「煙草吸っていい?」
「だめですよここは路上喫煙禁止地区です」
「あ、そ」
いったん握ったマイルドセブンをポケットに戻した。余計に吸いたくてたまらなくなった。
「僕ね、貯金しているんで、節約生活です」
「何のために?」
「いろいろ不安な世の中だし蓄えておいて損はないんじゃないかなあ。悪いことではないでしょ」
「子供だな、カネを過信するな、世がどうなるかなんて言い始めたらきりがない、戦争でも勃発してみろ、カネの価値なんてゼロだ。楽しんでおかなかったことを後悔するぞ」
誰かが言っていたことをそのまま受け売りしただけだったので実は自分でも言っている意味を半分も理解していなかった。そんなやり取りをして十分足らずで目的地である私の自宅に到着した。
「はい。ここでネイルやる」
太一は疑問でいっぱいの顔をし、口を歪めた。そして言った。
「このゴミ屋敷で、ですか?」
太一の言う通りそこはゴミのかたまり。続けて言った。
「現代アートですね」
冗談のつもりのか本気なのかも確認すること無く、私は中に入るよう促した。

廃屋ネイル(3)へ続く


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