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【小説】廃屋ネイル(3/8)

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【第三話】
太一を畳の上に座らせると私は折りたたみ式のテーブルの上にネックピローを置き、タオルを被せた。猫みたいに太一は小刻みに首を動かして様子を追う。段ボール箱の中からネイルセットを取り出し、色とりどりのマニキュアやオレンジスティック、ピンセット、ポリッシャーをこれ見よがしに並べた。今まで目にしたことのない秘密道具に少年は興味を示しているに違いない、と思いきや、
「あれは大丈夫なの?」
と屋根の穴を見上げて言った。鼻の穴の奥が思い切り見えた。
「大丈夫、大丈夫、トップライトと思え」
「ホームレスのテントの方がまだちゃんとしてるんじゃないですか。ゲリラ豪雨来たら屋根が崩れ落ちそうだよ」
「はいはい。いいから右出して」
素直に太一は従った。いそぎんちゃくみたいに白い滑らかな手だ。本来ならハンドクリームを塗りこむところから始めるのだが、なんとなく躊躇してそれはやめておいた。
まずは指をひとつひとつつまんでファイルをかけ、爪の長さをそろえる。次に表面の艶をバッファーで消す。
「え、爪の表面削るんですか」
太一はいちいち驚きを隠さない。その反応が私には新鮮だ。
「そうだよ、こうするとジェルが剥がれにくくなるから」
「爪に凄く悪そうだ」
「女子は美のためには小さなことは気にしないのだ。そういえばあんた、女を理解したいとか言ってたね。彼女いる……」
の? を言い終わる前から、いません、と太一は食い気味に言った。
気まずくなってそれから暫く沈黙が続き、次第に私は甘皮を取り除く作業に没頭した。彼から生み出された角質を細かくハサミで切り取り何度もワイプする。私の意識はもう彼の爪の先にしか無い。作業に集中するあまり、おそらく私の鼻からは生温かい風が吹き出、彼の指を幾度となく撫でつけたに違い無いのに、不快感を露わにすることも無くなすがままになってくれていた。
やがて薬指にユニオンジャックの柄が出来上がった。あとの指には赤と青とシルバーのラインを斜めに入れた。透明なジェルを塗り、UVライトを地道に当て、完成すると太一は素直に褒めた。
「すげー。上手いねえ。ルミさんってもしかしてネイリストってやつ?」
「いいや、これは趣味だね。仕事にしたらせっかく楽しいことがつまらなくなる」
「もったいないなあ。器用なんだねー」
太一はしばらくの間、指を思い切り広げたまま、捕まえてきたカブトムシを愛おしむ小学生のように、艶めく指先を無邪気に眺めていた。私はその姿に満足し、道具をあるべき場所に戻していた。筆を拭う私の前髪に向かって太一は言った。
「ルミさんさー」
何―? と私は手を止めずに返事をする。
「ここに住んでるんですかー?」
「まさかー」
「誰か住んでるの?」
「誰もー」
「もったいないねー」
「確かにね。っつうか、実家に戻ってきたらこうなってた。知らなかったんだよ昨日まで、ここに誰も住んでないこと」
「ふーん」
太一は生々しい赤い幼虫みたいな唇を尖らした。
「こんなふうになっていること知らずに帰ってきて、びっくり」
エタノールの瓶の蓋をしめる。カチャカチャと音がする。
「彼氏とおとといまで一緒に住んでたんだけど、追い出されたんだ」
聞かれてもないのについ言った。
「じゃあ今どうしてるんですか」
「とりあえずマンキツ」
「まじで」
「まあ、なんとかするさ。あんたに心配されることない」
「賃貸とか探すとか、ですか?」
「あたしね、今無職なの。無収入の人に住まいを貸してくれるほど世間は甘くないのでね」
絶望的な状況のときほど乾いたトーンの言い方になる。
「じゃあ、俺んち、来ます?」
タオルをたたむ手が思わず一瞬止まる。あほか、と言って私は笑う。
「あんた見ず知らずのおばさんによく言うね、そういうの。怖くない?」
「全然」
「こうやって平気でここにいること自体が不思議だ。まあ、呼んだのは私なんだけど」
我ながらつまらない会話をしている。
「俺にはルミさんが目に入ったんだ。だから信じた」
太一は急にトーンを変え、まっすぐ私を見て言った。一瞬つやつや光る白い招き猫に見えた。冷たく明確な音がその陶器の置物から発せられた。
「俺の目には必要なものしか目に飛び込んでこないの。そういうしくみだから。ルミさんが呼ぶのが俺にははっきり見えたの。だから来たんだ。俺には必要なんだってさ」
私を見る、というよりは私の体の向こう側に語りかけているような気がした。
戸惑うのと同時に面倒になり、適当に返事をして背を向けた。心の中ではもう帰ってくれてもいいんだけど、と思った。沈黙になった。畳と布が擦れる音がして、振り向くと太一は腕時計を見ていた。皮のベルトは擦り切れ年季の入ったものではあったがデザインが良くてそれは素直に褒めていいと思った。
「その時計いいね」
「でしょう」
「おしゃれ」
「だよねえ。なかなかそれを分かってくれる人がいなくて」
太一は無防備に笑顔を作る。胸が軽く締め付けられて、とっさにネイルの小瓶を箱にしまう動作をした。その動作をしている、という意識を強くしていた。
「終わったから帰っていいよ」
サラっと言った。
「練習になった?」
「そうだな、ユニオンジャックは久々だったし。ありがとう」
太一は立ち上がると汚れたおしりを叩きもせず、ジャケットを羽織った。センスの良い時計に気付いた後に改めて見るとその生地に付いた皴も故意に付けたものに見えるから不思議だ。
「ねえねえ、さっき、何してたの?」
スニーカーを履く背中が聞いた。
「ほら、僕を呼ぶことが目的であそこにいたわけじゃないでしょ。ほんとにネイルアートの練習台が欲しかったの?」
そうだよ、と答えてから間をおく。
「ネイルはオフしたくなったらいつでもおいで。自分では落とさないほうがいい。失敗するとかなり傷むんだ」
「ありがとう。凄くこれ気に入った。またやってもらうと思う」
太一は顔だけをひねって嬉しそうに言い、思い出したようにポケットからスマホを取り出した。
「ねえ、ラインやってる?」
「ライン? ああ、私ガラケーなの」
「じゃあ僕の電話番号教えるよ。ショートメールでメルアド教えて」
太一の鼻先はまんまるで可愛かった。

太一が帰った後は急に疲労に襲われて、ざらついた畳の上で眠り続けてしまった。
午後から雨が降り始めていた。屋根を打つ音で目を覚ますと細い糸状の水が屋根の穴から流れ落ちていた。薄目を開け、何も考えずに見ていた。次第にそれはわびさびのきいた滝の風景のようにも思え、ほのかな禅を感じ、平静な心を携えてまた眠った。
日が傾き、部屋にゆっくりと薄暗がりが満ちていく中、いろいろなことがどうでもよくなり始める冷たい五月の夜。暗闇で目を閉じていると細胞が畳に溶け出していくような気がした。家よりも先に朽ち果てるのは自分だと思った。
朝になると雨はやんでいた。リビングはずぶ濡れになっており、鼻が慣れただけなのかもしれないが川辺のような瑞々しい匂いで少しばかり悪臭は消えたような気がした。
吐き出し窓を開けてみた。洗濯ものを干すほどのスペースしかない裏庭にはかろうじてゴミは無く、ただ太い木が一本立っている。まるで床組みを根こそぎえぐり取ろうという意思を持っているかのように大木は根太く成長し、縁側の一部を破壊し、外壁に沿って伸長し、さらには軒を打ち壊し、威圧感たっぷりにそこにいた。
「またでかくなったなあ」
ひとりごちて見上げる。風が吹き、鮮やかな緑の葉がザワザワと揺れた。
子どもの頃、姉と一緒にふざけて小さな木の苗を庭に植えた。当時幸福の木とかいう木を植えることが流行ったのだ。手入れもしないくせにいたずらに、場所も考えずにただ植えた。まさかこんなにも成長するとは誰も思わないのに、見事にそれを裏切ってインチキくさい名称の木は人目憚らず、躊躇することなく伸び続け、夏になると庭に濃密に黒い影を作った。
それに反比例して木造家屋は朽ち始めた。木は家の栄養を食って育った。何が幸福の木だろうか。
屋内からドスドスと音がした。振り返って見ると絨毯にはつやつや光る黒い小山ができていた。屋根の穴から泥の塊が落ちたのだ。じわじわ進むまぎれもない腐敗を見つめ、ようやく私は姉の家に行こうと決めた。

廃屋ネイル(4)へ続く


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