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社会学の現在地を探る

社会学部を出た上社会科の教員免許でお仕事をもらったりする人間である手前、現在の日本における、特に国内をどうするか論ずる方面の社会学の立ち位置には色々思うところがあるわけです。

現在有名な社会学者といえば誰でしょう?おそらく、知名度的には古市先生になろうかと思うんですね。少し前は宮台先生でしたけど。皆様色々ありますけど頑張っていただきたいと思います。個人的にはサンモニでお馴染みの俺たちの田中優子を推しています。非常に人間味のある面白い先生だと、田中ゼミに属していた脚本家の友人が語っていました。六大学初の女性総長となり、弊学出身のガースーが無事に黒光り総理大臣になったときは歯に何か挟まったような物言いでお祝い文を出していたのが印象的です。元気かなゆうこりん。

現代における社会学のアプローチ

社会学が社会を論じるために切る方向は二つあり、「こうなってほしいから、こうしたらどうか」と、「こうなってほしいのに、どうしてこうなっていないのか」が挙げられるでしょう。要は積み上げるか分析するか、という論点整理であり、実際のところは今多くの社会学が「分析」の切り口にに充てられていることと思われます。これの是非は置いておきます。

で、思想的には分析とはいえ、その前段階の「批判」の文脈で社会を捉えることが伝統としてあります。これはアドルノとホルクハイマー、デュルケム、ウェーバー、その礎を築いたマルクス、ヘーゲル、もっと言えばカントまで遡る事ができるでしょう。

ただ、切り口としてはそうであっても、現代の社会学は結局経験論や方法論に終始しているように感じられます。これは、民衆の声(社会の課題とされるもの)があまりに拾いやすくなってしまったことと無関係ではないでしょう。旧来は、統計を取るためのサンプリングにはフィールドワークやアンケートなどが用いられ、それにより抽出された(出てくる)人間の言動・動向によって研究が進んでいたのが、今ではマスコミやインターネット、SNSの発展により非常に多くの声が拾えるようになり、多様な問題が表出してしまうようになったからです。個人的にこの事象は、(研究を進める上では)船頭多くして船山に登る以外の何者でもないと考えるため好ましくないと考える一方で、多様性の観点から言えばとても貴重な、かつ批判に有効な文脈を生みやすい構造になっています。つまり、社会学としては論点が多く、実はむしろ盛況であると言えるでしょう。

社会学が現代に提供できるもの

翻って、現代社会において社会学はグランドデザインを提供できていません。アドルノとホルクハイマーがアメリカ文化圏を批判した際に危惧された、いわば事実をニーズに脚色されること -B級映画を見て喜ぶことこそが人生の楽しみであるという刷り込み- は100年かけてもはやつつがなく完遂されているように見え、それは例えばフランクフルト学派的な社会学が反論すれど民衆への答えをついぞ提示できなかったということを指します。この間、例えばハーバーマス先生はアドルノとホルクハイマーを批判し、むしろ米国的な自由度の高い経済活動によって社会は答えを見つけられるのだという希望的な方面でも語るなどしていましたが、その果てにある現在ではサンデル先生が示している通り、アカデミアすら金持ち坊ちゃんしかいない状況となりました。

特にサンデル先生の「実力も運のうち?」での論考は貴重で、非常に民主党的な発想をしながら民主党を批判する、というパラドックスを論理的に理解する事が可能です。で、サンデル先生は経済学者なんですよ。社会学者ではない。でもこの論考は明らかに社会学の領域です。先端研究でこうなるのならば、これは社会と経済がもう分離して語れないことを意味しているのではないかと危惧しているのです。つまり、現在社会学はベネフィットやインセンティブを提供できず、一方で経済指標のみがそれを担当し、社会学はお題目を並べるだけの都合のいい批判装置になっているというのが私の見解です。これは、マルクス資本論が現在のサービス業中心の社会を包摂できていないことと相似系といえるでしょう。

社会学の現在地


これは、社会学の出発点を紐解くと、やはりキリスト教的な世界観や道徳心に立脚している事が考えられます。先のインセンティブの話に関連しますが、当初それは神による救済だったのは間違いなく、キリスト教的な、ともすれば十字軍的な発想で資本主義を加速することは果たして良いことなのか、神の名の下にどうして貧困が発生するのか、というアプローチになってきます。で、現代社会学を遡り必ず当たるウェーバーはその最もたる例であり、そのさらにさらに遡るカントの批判理論も現代では白人至上主義の考え方に立脚していることが解明されており、グローバル社会の萌芽ー植民地時代や産業革命の頃には膝を打ったでしょうか、各国が人種の坩堝と化した現代社会において前提条件として機能するかは再検証すべきであるものの簡単には難しく、結果的に論拠を失ったまま「お悩み解決」という名の分解微生物として機能しているのが(少なくとも日本の)社会学の現在地なのでしょう。それも悪くないと思う反面学問としての賞味期限はかなり厳しく、盛り立てるには必要なのは純正批判理論5.0くらいの精神が必要だと思うんですよね。

最近も経済学者の成田さんが社会学的な方面で燃えたり、古市さんが燃えたり、俺たちの政治社会学白鳥浩がマイナンバー方面でYahoo!エキスパートでドヤ顔でコメントしていたら盛大に与太話だと名指しで叩かれて黒煙が上がっているのが観測できたりと社会学者は火薬かなんかなんですかと勘違いするような悲しい状況に置かれているのを一学徒として大変危惧しています。テレビもヤフーも𝕏も見てない私がこれを観測できると言うことは社会学的に結構な一大事だと思うんですよ。

社会学は何を示すべき? -メインストリームたる資本主義をどう論じる

では、社会学が示すことのできる現代のグランドデザインはどうなものがあるのか、というと、これは(経済学者ですが)サンデル先生の切り口である「無防備な公共空間が資本にさらされている」ことから広げてゆくのが、ベストセラー作であることからも支持や理解を得やすく有効だと考えられます。この公共圏に関する議論こそハーバーマス先生に由来する社会学の骨子となる概念であり、実際に無防備な公共空間が資本にさらされること=SNSとDXの弊害は各所で発生しています。このアメリカ的マスコミ文化圏と産業革命4.0が果たして「良いもの」なのか、検証と批判を続ける必要があります。この中で発生している消費者トラブルやSNSでの言論の野放図化は本件の枝葉であり、関連はするものの無制限にひろがってゆく事が容易に想像されます。

また、昨日の一生一緒にNVIDIAやMicrosoft、Appleとの3大巨頭デッドヒートをどう冷ややかな目で見、かつ適切に分析してゆくかも課題です。資本主義である以上、巨大な戦争さえない限りは株価は大幅な暴落を見ません。ウクライナ侵攻ですら−40%ほどで底を打ち、今ではそこから+110%くらいでしょうか。他にも進行形の戦争が多くある中で成長し続ける資本主義とは恐ろしいものですが、資本主義が存在する限り、資本は増える事が命題だから間違いでは無いのです。そして、日本は資本主義の国なので、本件は忸怩たる思いで歓迎する、という状況であることも留意すべきでしょう。そういう意味で、「否定はしないが批判はする」というスタンスが求められていると考えられます。

結局、マルクスやウェーバーから100年以上経ち、もはや暴走機関車となった資本主義はお題目や社会理論で止まらなくなってると思うんですよ。社会学がその資本主義から漏出する諸問題にアプローチをしにくくなるのはここにあると考えられ、であるならば、その資本主義の論点 -経済的な観点を積極的に取り入れ、論じるべきでしょう。なぜ株主還元が必要なのか、なぜ調達資金以上の動きをする必要があるのか、金融の利子はどの程度が適切なのか、などアプローチは非常に多くあるでしょう。無論、これは、先に触れた「(米国)民主党的でありながら、民主党的に批判する」というロジックに支えられている点は指摘されるべきだと思います。

このことに加え、折に触れたように、マルクス資本論的な切り口はサービス業中心の国には当てはまりにくく、それを論拠としたドメスティックな社会学の展開はもはや難しいと思われます。もちろん、伝統的な社会学の多くはいわゆる左派的であり、既成左翼や新左翼方面で幅広く論じられた新世界への渇望はマルクスやエンゲルスの共産党宣言などに裏打ちされていた事実は揺るがなく、そのアプローチを続ける場所として6−80年代に社会学が選択されていたこと、その余波が現代にも残っていることもまた事実であります。ただ、その論考がメインストリームとなれるかはまた別の論であり、翻って、マルクス資本論を用いずに資本主義を批判する方面があって良いと思うのです。それを社会学的なアプローチで成すならば、先に示したサンデル先生の論考を嚆矢に、やはり公共空間についての論考を推し進めると、特に社会を考える上で最大の勢力であるビッグテックに対して有効にアプローチ出来るのではないかと考えています。これは独禁法を根拠として欧州では活発ですが、経済的なエビデンスもありつつ、社会がどうして今こうなっていて、どうなった方が幸せになるのか、という切り口をあらためて持てないのだろうかと考える次第です。

社会学コーナーにロクな本がない件

と、図書館の社会学コーナーに来ていい本がないのか見てみたのですが…見事にミクロ学問しか並んでおらず、現代を包括的に論ずるものが世に出ていないのだなあと感じて思い悩む次第でした。なぜスマホは人をバカにするのか?とかはタイトルはアレにせよ言いたいことは比較的近いだろうといざ開くと自分の観測範囲を熱く語るだけの本だったりするのでこれはもうエッセイだろというハードカバーを見ながらクソデカため息をつく日々です。社会とは。公共とは。そこにあるはずなのにわからないものです。今までがわかったふりしてただけなんですかね。

余談ですが、そんな近隣のめっちゃ綺麗になった図書館とかでも社会学方面は大した蔵書がなく、思い至って株主総会の帰りに神保町で古書巡りもしましたが、もしかして80年代以降の社会学って真面目にウェーバーとデュルケム擦りまくってヘーゲルとマルクス論じたら勝ちみたいな方面しかないのか…とがっかりするラインナップでした。社会学さあ…

画像はAIが考える「多分もう資本家も止められない資本主義という地球規模の暴走機関車」です

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