見出し画像

”長く続くコンテンツ”と推し活のやめ方

生活がポケモン一色です。

朝は大正義ポケモンスリープに起こされ、移動時間はPokemonGOを起動し、昼、夜ごはんもポケモンスリープを確認しご飯を与え、帰宅後は子どもに誘われポケモンカードやポケモンバトルをやり、子どもが寝静まった後に少しSwitchで本編を進め、ポケモンスリープにお休みを言って一日が終わるのです。何が起きてるんだ。怖い。Switchの本編なんか発売から1年半経っててまだバッジ集まってないのに。気づけばポケモンに包囲されています。

これは短いスパンで起こった事ではなく、思えば8年前のPokemonGOからゆるやかに始まり、その中で子どもが生まれ大きくなって、そのうち子どもが「友達がやってるから私もポケモンがやりたい」と言い始め、さらには「図鑑を埋めたい」というので自分用のSwitchを追加で買い交換要員となり、そのままリメイクされていたなつかしのポケモンスナップやらも買ったりしてしまい、さらに子どもから「今度友達とポケカをやる約束をしたのでカードを買ってほしい」と言われたため、気づけばコンビニで500円で売っているコライドンデッキを買い与えポケモンに付き合う日々なのです。ちなみに子どものお弁当箱はコロナ前にスリコで売ってたポケモンのやつです。

ポケモンが生活の一部になってない?これ

長く続くコンテンツと日々の生活の親和性

これほど緩やかな侵略がありましょうか(言い過ぎ)。とはいえ、子どもを巻き込んだこのムーブは歴代のキャラクター商品でもなかなかなかったのではないかあなんて思います。遊びとキャラクター性が合致して、しかもそれが現実とゲームの垣根を反復横跳びし続ける光景は世代を超えて愛されるスヌーピーやキティさん、ドラえもんやしんちゃんなどとも一線を画しています。これはポケモン本来が持つ「昆虫採集」と「カブトムシバトル」のモチーフがゲームでうまく再現されていたことと無関係ではないでしょう。現実世界で採集し、それを戦わせ競い合わせる興奮というのは子ども時代に大きなカタルシスを与えます。

それをゲームでやるべきかは文化史的側面を語る方面に任せるとしてさておき、正直全然迷惑じゃない訳なんですよ。親として。ちょうど我々は赤緑世代(私が緑でうちの人は青版もってたらしい)で、ピカチュウ可愛いよねとかイーブイ何に進化させた?とか通信ケーブルもってるやつ神様だったよねとかそういうトークも夫婦間で全然できるわけじゃないですか。そこに、当時の私たちと同い年くらいになった子どもが参戦してくるわけですよ。最新作を持って。この子どもと親とのかかわりにはマグカルゴを先頭にタマゴを5個抱えて廃人ロードを爆走するとか、色違いA0厳選がどうとか、乱数調整がどうとか、努力値配分で準速抜きとか、いじっぱりASふいうちゴローニャがトレンドとかそういう呪文みたいな空間は存在しません。無理して夜更かしする事もなくずっと「ポケモン」を楽しむ空間が存在出来ている事。これはポケモンというブランド・コンテンツがオタク向けコンテンツとして廃課金を煽るのではなく、日常に無理のない範囲で溶け込むことで世代交代に成功したという事なんだなあと思います。長く続けるとコンテンツは先鋭化しがちですが、30年近くよく続いているなあと感心するところです。うちの人アルセウスのゲーム買ってきちゃったよ。

長く楽しめたはずの推し活

他方、先程申しました通り、基本的に長く続くコンテンツは先鋭化していきます。ともすれば先細りともいうわけですが、昨今ではその先端部分を「推し活」と呼ぶ向きが増えています。自分の好きなものを追いかけ続けるサ終ゴールの無制限マラソンみたいなもので、これ、ほうぼうのコンテンツ見てますとうまくやると3年くらい推し活で人気が続くんですよ。開始から2年くらいでコンテンツ単位の拡大率の限界が見えてきて、そこから3年くらいは固定ファンを煽って推し活ルートへ進ませることで追加3年くらい、結果5年ほど右肩上がり増収増益しているケースが多いです。

問題はその先なんですよね。ファンも6年目超えたあたりからアラサーだったのがアラフォーになったりして、仕事や生活のフェーズが昇進や結婚などでガラッと変わったり、単純に体力がなくなってきます。深夜に起きてられなくなる人間の哀しき仕様を目の当たりにし、無理して深夜に推し活をすると翌日に響くようになり、そのうち脳が疲弊して「ワイはいったい何を…」となったらここで一人のオタクアイデンティティがオワなわけですよ。多分いると思うんです。そのあたりのソシャゲとか推し活やってたけど、正直辞めたいなって思ってる人びと。長く続けすぎた推し活をやめにくくしてしまうのは、「今更退けない」という旧日本軍を彷彿とさせる俺たちに根付いた大和魂にあります。

推し活はなんでやめにくい?

この「今さら退けない」が何に起因しているかと言えば、「正直辞めたい」段階で愛よりもお金や時間が原因です。「今更退けない」と感じている段階で愛は冷め始めており、一方自分がどれだけの金と時間をつぎ込んできたかはわかっていることなので、ならばその愛と等価なはずの総額をドブに捨てるのか?というリセット感への恐怖とか、戻らない時間とお金の規模に耐えきれないとか、損は切れないしきっとリターンがあるはずとか、そういう意味でのタイパとかコスパ意識が表出しているわけです。正直無理してる段階でその推し活は健全な生活の一部ではありませんし、これはギャンブルから抜けられない人たちの心理と同じでもあり、「回収せねば」や、「リターンがあるはず」というほぼ存在しない上がり目を心の拠り所にして邁進してしまうのはもう限界に近いでしょう。

推し活に使ったコストを変換してみよう

でも、じゃあ実際8年で総額500万つぎ込みましたーとします。やべえやつじゃん。なので、この大金があったら私は何が出来たのだろう…と考えた結果が「今更退けない」なのはわかります。では、見方を変えてみましょう。時間もお金もすごくつぎ込んだかもしれない。でも、正直推し活を生活の一部にしてたわけじゃないですか。毎日の仕事や生活の彩として欠かせない時期があったはずです。そういう意味で、この推し活は食事と同じです。それは毎日のルーティンであり、おいしいと一日がんばれそうであり、家に帰って楽しみにできるものでもある。そのメニューやブランドを自分で選び、毎日、毎食食べていたということと同じです。そう考えれば、この例では8年間で毎日3食、1食あたり570円の推し活です。それだけの価値のものだったということがわかってくると思います。

で、食の好みは変わります。それこそマイブームになった五穀米とか一生食べれる気がして大袋が8つ入ったダンボールAmazonで買った瞬間に食べなくなるとか、毎日これでいい~~~!と思ってたレーズンパン3日目で飽きたりとか、食べモノって飽きて当然なんですよ。食は万里にあり。多様性やね。

それに、食べ物で摂取するべきエネルギーは自分の加齢によって変化してきます。毎日食べても飽きなかいと思っていたステーキ肉を今や見るだけで嫌気がさすようになり、あれほど馬鹿にしていた世田谷自然食品のグルコサミンやにんにく卵黄に助けられる日が来るのです。そう考えると、8年間という月日はあれど、単純に摂取すべきものがかわってきたのだと割り切ることもしやすいと思います。

これでもまだモヤるなら、いっそ減価償却しましょう。8年で500万かかったとしても、その時どきに摂取した興奮とかトキメキとか栄養とかは否定できないわけじゃないですか。その一瞬のきらめきこそが人生であるのは間違いなく、そのひとつひとつが自分を構成するパッチワークになって細胞一つ一つに息づくようになるわけです。そうすれば、長生きすればするほどこの500万というコストの年割が安くなっていきます。ここまで推し活で使ったコストは未来への投資だということにするのです。これは業務用冷蔵庫とは違い自身が摂取したものなので、健康でありさえすれば一生ともにあれる優れモノだとなるわけです。

と考えてみてもやはり愛着があるなら推し活を続けるべきだと思いますが、コストがちらつくようなら「生活の一部を構成する要素」として認識し付き合ってみる事をお勧めします。

ワイはこれでFGOを辞めました。ジャンヌオルタに7万かけた日もあったね(白目)

このように、コミュニティはあれど結局はワンマンアーミーである推し活においてはここのところをもう少し冷静にロジカルに考えられると思うんですよね。他方、同担コミュニティで10年近く煮詰めた「みんなでしあわせになろうよ」とかいう後藤隊長直伝のパワーワードで抜け忍が拷問の果てに村へ引き戻される事案があると聞いています。それはもうアカウント削除して風呂入って回線切って髪乾かして寝ろというしかない。成仏してくれ。

画像はAIが考える「Twitterの代償は未来」です

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?