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空き地と雑草のAlmanac

かっこつけて「almanac」という横文字を書いてみた。これは日本語に直訳すると「暦」とか「年鑑」。しかし僕にとっては、少しだけ言外の意味を持っている。季節によって律されるリズムとか周期性とか繰り返すパターンとか、そういう法則めいたものが存在することをにおわせるような単語だと感じる。そういう感覚を得るきっかけとなったのはある本との出会いだった。

世界の環境保護の歴史を考えるときに外せないのがアルド・レオポルドという人で、彼の代表作は「A Sand County Almanac」という書籍である。これは、レオポルドがウィスコンシン州の自宅の周辺の自然について語ったものであり、長年自然を観察し、そこから考えた哲学や法則をエッセイの形でまとめたものだ。

ちなみにこの本は、日本では「野生のうたが聞こえる」というタイトルで訳されているが、いささか原著の雰囲気と相いれないような気がしている。原題を直訳すると「サンド地方の年鑑」みたいなドライなタイトルになる。事実を淡々と述べ、それを積み重ねた書物。この静謐な雰囲気が原著の魅力だと思う。これにくらべ、日本語タイトルは少々自然保護に前のめりすぎる気がしてしまう。

さて、ウィスコンシン州というのはアメリカ中西部に位置し、冬はかなり寒くなるのだが、どうしようもなくワイルドな場所というほどでもない。ウィスコンシン州よりももっと過酷な場所はアメリカにいくらでもある(僕が約4年過ごしたワイオミング州はそのひとつだ)。無理やり日本で例えるなら、福島県の会津盆地あたりが思い浮かぶ。冷涼な穀倉地帯。といっても環境はそれほど過酷ではなく、都会へのアクセスが絶望的にわるいわけでもない。ようするに片田舎なのである。手つかずの原生林が果てしなく広がり野生動物が自由に闊歩するアラスカ州のようなワイルドさではなく、のどかな田園風景が広がる場所なのだ。

こんな片田舎の自然と長年付き合って、自然のリズムを観察し、その法則性から、人と自然のかかわり方や人間の倫理までにおよぶ哲学をつづったのがこの「A Sand County Almanac」なのである。自然界の真理は、どこか遠い国にある野生生物の楽園みたいなところでなく、むしろ身近なところにある。僕もそんなふうに思う。この本には、自然を尊重し、自然に驚嘆し、自然を守ることへの静かな熱意にあふれているのだが、それと同時に、人間の性(さが)とかエゴとかが存在することも素直に認め、現実的な落としどころを探ろうとしているのがたいへん興味深い。

環境保護活動の思想は多様で、なかには「人間は存在そのものが害悪で自然保護は何モノにも優先する」みたいな過激な思想もある。これとくらべるとレオポルドの思想は穏健だ。しかしそれは決して妥協が生んだものではなく、彼が到達した哲学的な答えというのがふさわしいと思う。

さて、21世紀の現代日本でも、身のまわりの自然を観察しているとリズムがあり、法則がある。何の変哲もないいつもの空き地に、毎年決まった時期になるとその花が咲き、やがて枯れる。僕らが意識しようとしまいと、こういう繰り返しこそが自然の営みなのだ。少々かっこつけて語ってみたが、僕はこんなふうに思っている。

いつもの空き地にも、四季それぞれの風景がある。

近年、日本の生態系は外来生物によって脅かされている。そしてその脅威は、片田舎の空き地のような場所で特に顕著にみられる。原生林が守られているような場所ならば、そもそも外来植物の種が持ち込まれる機会もあまりないし、もし種が持ち込まれ発芽したとしても、彼らが利用できる光やら水やら栄養やらはすでに土着の植物によって使われているから、外来植物が定着できるようなニッチ(すき間)はあまりない。

ところが、片田舎の空き地はすきだらけだ。人間が何かに利用しようとして更地にしたのだが、その後事情が変わって何にも利用されていない場所が空き地である。そこを田畑にしていたなら雑草がそれほど生い茂ることはなかっただろう。そこに家を建てていても、雑草がはびこるスペースはなかっただろう。

何にも利用されていない更地があると、植物たちは「よーいドン!」で一斉に成長をはじめ、その場所を自分のものにしようとする。かくしてその結果として、成長が早く貪欲に葉や根を伸ばす外来植物が圧勝するという図式が、日本のおびただしい数の片田舎の空き地で発生しているのである。

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そんな場所をながめ、僕は生態学者として「人と自然の関係って何だろう?」という哲学的な問いについて考えている。外来生物が根絶されて100%「純国産」の自然が戻ることなんていまさら実現できない。しかし、外来種だらけになってしまった日本の自然に絶望して、興味をなくしてしまうわけでもない。

そもそも生物に「よい生物」や「わるい生物」なんてないと僕は思う。
人間が特定の評価基準を用いるときに、その人にとって「役立つ生物」「役立たない生物」はいるかもしれないけど、根本的に生物の存在そのものの善悪なんてない。いま日本で猛威を振るっている外来植物にもふるさとがあり、そのふるさとで生活するぶんには誰からも批判されたりしない。ところが人間がその植物を日本に持ち込んでしまったため、「悪者」として駆除の対象になってしまったのである。

外来植物にとっての日本の自然環境は、そのふるさとの自然に似たところもあり、違うところもあることだろう。彼らは彼らなりに、新しい環境に適応してうまくやろうと全力を尽くしている。それが奏功して日本の空き地を席巻している。僕はこういう現象をニュートラルな視点で眺めている。ある種の達観というか諦観なんだろうか。

早春の空き地は、オオイヌノフグリやヒメオドリコソウなど背の低い外来植物が可憐な花を咲かせる。本格的に暖かくなってくると、ハルジオン・ヒメジョオン・オオキンケイギクなど背の高い植物が目立つようになる。

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真夏になると、アレチヌスビトハギやオオアレチノギクなど不穏な名前を押し付けられた植物たちが成長し、繁茂し、開花する。その脇でどんどん背を伸ばしているのがセイタカアワダチソウで、彼らは秋になると一斉に開花し、空き地を金色に染めるのである(その名もゴールデンロッドという植物の仲間なのである)。

8月のある日、奈良県明日香村を旅していたとき、こういう光景が目にとまった。

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外来種の雑草を中心とした植物が多種混在しており、あるものは花を咲かせ、別のものは成長の途上であり、ほかのものはすでに花期を終え種をつけている。多くの観光客がこの場所を訪れているはずなのに、誰もこの光景を意識していないように思った。

付近には、高松塚古墳やらキトラ古墳やら、日本古来の歴史ロマンにあふれたスポットがごまんとある。そしてとある遺跡の脇の空き地がこの写真である。遺跡は公的で貴重な記念物として、国や自治体によって手厚く保護され、管理されている。しかしそこから数メートルしか離れていないこの私有地は、管理する人もなく、雑草たちが思い思いに成長し競争している場所なのである。古代もここは空き地だったんだろうか。そしたら古代の人たちも、この場所に腰掛け、植物をながめていたのだろうか。現代になって、植物の種類は大きく変わってしまった。この場所も、当時の人が知らない植物たちで埋め尽くされている。

もう過去には戻れない。それは、近現代の外来種問題においても、古代における渡来人とか金属器や稲作の伝来などにおいても真実であろう。この場所はこれまでに何度か、このような不可逆な変化の影響を受けてきたことだろう。毎年繰り返す季節のリズムにおいても、人間が繰り返す文化・産業・生物の移入においても、なんか世界の真実みたいなものを少しだけ垣間見た気がして、僕はそっとカメラのシャッターを押した。

そのとき思い浮かんだのが、「空き地と雑草のAlmanac」ということばである。

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