見出し画像

京都のおもしろさ

これまでの人生、わりといろんな場所を旅したり、いろんな街に住んだりしてきたけれど、結局世界でいちばん気に入ってる町は京都かもしれない。歴史遺産とか文化とか、僕がこの街を愛する理由はいろいろある。そして、よく考えてみると、京都の文化の背景には、京都の自然環境が垣間見えるような気がしてならない。特に、ガスコンロとかトラックとかエアコンとか便利な文明の産物のなかったむかしは、京都の人びとのくらしは周囲の自然環境からダイレクトな影響を受けてきたことだろう。思えば、人間も生物であり、その生物が気に入ってすみかに選び、長年そこに住み続けるというのは、なんらかの生態学的理由があるともいえる。こんなかんじで学者っぽく書き出してみたが、これは僕が抱く京都への偏愛の発露なのかもしれない。どうかお許しのうえ、しばしお付き合いいただけるとありがたい。

画像4

さて、文明の発達してなかったむかしの日本で、京都が千年以上も都として機能してきたのにはそれなりの理由があるはずだ。古代、日本の首都つまり天皇のおわす場所は、わりとひんぱんに引っ越ししていた。奈良県・大阪府・京都府・滋賀県など、近畿一円のさまざまな場所に都がおかれたが、それらは長くても数十年しか持続しなかった。なのに、京都は千年以上も都であったのである。源平の合戦や応仁の乱など京都が荒廃することは多々あったが、それでも人びとは京都に住み続けたのである。

たとえば水や燃料の供給という意味で、山と森が近いというのはとても有利な立地条件である。三方を山に囲まれた京都はこじんまりした街であり、どこにいてもキョロキョロ見渡せばどこかの山が視界に入るものだ。この点で、東京や横浜などの大都会とは雰囲気が違う。森に降った雨の一部は川に流れ、また一部は伏流水となり、湧き水や井戸水として人々の暮らしを支える。人びとは清冽な湧き水が流れ出す場所を神社に定めて守り敬う。たとえば、下鴨神社はいまも市民にとって特別な場所だ。暑いさかりに開催される御手洗(みたらし)祭では、無病息災を祈りつつ境内の冷たい湧き水に足をひたす。うだるような京都の暑さからは想像もつかないほど水は冷たい。この場所の特別さを実感できる瞬間だ。このように豊かで安定した水の供給があるのも、近くに森があるからだといえる。

森が近いということは、炊事に不可欠な薪や炭の供給という点でも有利である。石油・ガス・電気がなかった時代、ごはんを炊くにも燃料が必要だ。徒歩圏内に山林があるという条件はとても有利だったことだろう。

京都の人びとは、京都ならではの環境条件に成立する自然を楽しんできた。たとえば苔庭がある。これは、わりと高温多湿で風の弱い盆地ならではの文化かもしれない。京都に住んでみたらわかるけれど、道端のアスファルトのすき間などちょっとしたスペースにコケが生えている場面に出くわすことが多々ある。これは、横浜や神戸などカラッとした海風が吹く場所ではあまり出会わない光景だ。京都は、まずは苔が育ちやすい自然環境を持っているのである。

さらに、苔庭の成立には文化とのかかわりが必須だった。苔とは地味ながらもなかなかわがままな存在で、適度な湿気と適度な日光がなければ育てない。人手の入らない原生林は苔庭のようにはならない。木々の落ち葉が降り積もり、苔を覆い隠してしまうからだ。日光が当たりすぎるとコケは乾燥して死んでしまうが、当たらなすぎても光合成できずに死んでしまう。そんなわがままなコケにとって理想的な場所は、修行僧が毎日掃除を行うお寺の庭になる。枯れ葉をたんねんに掃除する修行僧のおかげで、コケは適度な日光を浴びられる。まばらに生えた庭木や建物が、コケに適度な日陰をつくる。

画像1

禅宗のはじまった中国でも修行僧たちは熱心に掃除をしているはずだけど、彼の地は比較的乾いていて、地面に苔が生えることはあまりないようにおもわれる。こう考えると、苔庭というのは中国発祥の宗教様式と京都の風土が合わさって結果として生まれた、おもしろい現象なのである。中国帰りの僧侶たちは、コケを生やす意図がないまま庭掃除をしていたのだろうが、京都ではコケを招くことになった。それを積極的に利用して苔庭として愛でることにした京都の人びとの臨機応変ぶりを想像するのもまたおもしろい。

幕末から明治にかけて、西洋の文化が流入してきた。西洋風の建物を建てて西洋風の庭園を愛でることがハイカラなものとして注目されることとなった。かくして京都に別荘をかまえることになった山縣有朋だが、最初は芝生の庭をつくりたかったとのことだ。それは横浜山手の洋館街のような場所なら成立したかもしれないが、東山山麓の湿った場所ではなかなかうまくいかない。芝生は思うように成長せず、気づくと地面は苔に覆われていくのである。それを見た山縣は悟りを開いた。無理に風土に合わない植物を育てようとするのはよくない、この場所に合った植物を、ありのままに愛でるのがいちばんだ。

画像2

かくしてこの庭は自然に繁茂していく苔によって覆われていき、風情のある場所になった。この物件を管理する庭師たちはこの場所に誇りをいだき、落ち葉や枯れ枝をていねいに掃除してすてきな苔庭が誕生することになった。現在この庭園は京都市の所有になり、無鄰菴庭園として一般に公開されている。

画像3


京都の風土はまた、「もののあわれ」という感覚を養うこともあったと思う。春の花もやがて散る。秋の紅葉もやがて散る。時間の流れが植物を変化させていくその事実と一抹の寂しさにしみじみと感じ入ること、京都ではよくある気がする。なんとなく寂しいけど、なんとなく落ち着くなあという不思議な感覚。京都に寺院は数々あれど、僕が気になるのは隠遁生活が送られた場所である。たとえば平安末期の源平の時代にちなむ寺として、嵯峨野の祇王寺と、大原の寂光院がある。どちらも、つかの間の栄華ののちの没落という時間の流れに翻弄された女性にゆかりがある。

僕はどちらの寺も大好きで、何度も訪れている。わざとその場所を選んだかのように、狭い谷の奥に位置している。もっと広い平野部に寺をおくこともできただろうに、わざわざ谷の奥に引っ込むというメンタリティが興味深い。こころに傷を負った彼女たちは、このような場所で自分をいやしていたのかもしれない。隠遁生活は単純にみじめというわけではなくて、あえて選んだ狭い土地の狭い場所だからこそ、ポジティブになれるのではないだろうか。京都の山あいには、隠遁におあつらえ向きの場所が多々あって、人に逃げ場を供給しているような気がする。

生態学的な表現をすれば、京都には多くのニッチがある。我が世の春を謳歌する権力者のための場所も、世捨て人のための場所もある。それはなんとなく現代にも受け継がれているような気もする。京都には、「かっこいい」とか「すてき」とかの基準が複数あり、互いに共存していると僕は思う。お金はあまりなくても何かを究めるみたいな生き方が許され、ある程度の共感が得られるというのも、京都のふところの深さであり、僕のような者でも呼吸するのが許されているように感じられるのだ。

画像5

京都の人は「ほんま観光客が多くて困るわ」なんて言うけれど、それには「人気者はつらいよ」的な、ちょっとだけ誇らしい気持ちも含まれているように思う。京都市民になってまだ10年も経たないけれど、僕にもそんな気持ちが芽生えてきている。日本の人も外国の人も、さかんに京都観光に訪れる。そんな彼らにも、京都という自然環境が文化を生んだことを、肌でふれて理解してもらいたいと思ったりする。多くの人が京都を気に入ると、なぜか僕が褒められたような気になってしまうのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?