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渚の院・後半(『伊勢物語』第82段)

お供である人が、酒を従者に持たせて、野を通ってやってきた。
「この酒を飲もう」と言って良いところを探し求めて行くと、天野川というところに着いた。

皇子に、右馬の頭(うまのかみ)がお酒をさし上げる。
皇子のおっしゃるには、「『交野を狩して、天の河のほとりに着いた』を題として、歌を詠んで、盃をさせ(杯に酒を注げ)」とおっしゃったので、例の右馬の頭が、詠んで差し上げた。

 かりくらし たなばたつめにやどからむ あまの河原に我は来にけり
(一日狩をして過ごして七夕姫〔織女〕に宿を借りよう 天の河の川原に私は来たことだ)

皇子は、歌を繰り返し口ずさみなさって、返歌をなさることができない。
紀有常(きのありつね)が、お供にお仕えしていた。その人の返歌

  ひととせにひとたびきます君まてば やどかす人もあらじとぞ思ふ
(一年に一度いらっしゃる殿方〔牽牛〕を待つので 宿を貸す人もいないだろうと思う)


天野川は、今の生駒市に発し交野市を通って枚方市に向かって(つまり南から北北西へ)流れている。

京阪電車から見る天野川は、堤防ばかりが目立ち、ちょっと興ざめだけれども、車で川の横を通ると、意外な川の横顔に出会う。
山の中の上流には、巨岩の磐船神社があり、渓流に沿ってしばらく行くと、広いところへ出て、川幅も広くなる。
東岸はすぐ右手に低い山並みが続き、西岸は藤田川(とうだがわ)が合流してきて、おそらく氾濫原だったのだろう、少し開けている。
その向こう(北西)には丘程度の山(その名も「山の上」)があり、今は開削してバイパスが通っている。下流になって、淀川に注ぐところになると堤防のせいもあって、河原がなく、かえって川幅が狭いように感じる。
 
あまのがわは、天の川というネーミングから、北極星や北斗七星信仰と関わりがある。また、天野川東岸、百済寺跡の付近の中宮(なかみや)という地名は、北斗七星の中宮、つまり北極星を意味するという(『大阪府の歴史散歩』下)。北極星は支配者の星なので、そこに氏族の神社や寺を配するのはもっともなことだ。
そういえば、聖徳太子展という展覧会でみたが、聖徳太子が所持したという剣には北斗七星の象嵌があった。
 
また、天野川上流(西岸)にも「星田」「妙見」など星に関わる地名がある。妙見も北極星のことなのだが、あまのがわの南方に妙見(北極星)があるのは不思議だ。それに、大阪では、能勢の妙見山のほうが有名で、おそらく別の場所からの見立てがあるのだろう。

見立てといえば、交野の倉治の機物神社にいた織女が、
枚方の茄子作(なすづくり;地名)の中山観音寺にいた牽牛と逢うのが
天野川の逢合橋だという伝説(『大阪府の歴史散歩』下)もある。
天野川が、天空の天の川でない以上、周辺に住む人たちが自分たちの住処の近くに牽牛・織女に関する伝説を作ったのは当然だから、いくつ伝説があっても不思議ではないだろう。

それにしても、昔は小芋の葉の露で墨を磨り、願い事を短冊に書いて、
こよりで竹に結び付けて、七夕が終わったら、河に流しに行ったというが、
小さいときにはもうすでに大和川も七夕の笹を流すのは禁止されていて、
住吉川に一度だけ流しに行ったがそれも、すぐ禁止になった。
今の街の子供たちは、きっと、七夕の笹を流すなんて思いも付かないのではないかしら。

ちなみに、紀有常がかわりに返歌をしているのは、惟喬親王の母方の伯父だから。惟喬親王の外祖父・紀名虎が失脚しなければ、惟喬親王の即位もあっただろうか。歴史にIFは禁物だけれども。

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