【勅使河原先生の縄文検定】 第2問

『縄文時代を知るための110問題』(11月8日出荷開始)の刊行記念。
著者勅使河原彰さんが本書から厳選した10の「問題」。
https://www.shinsensha.com/books/4447/

【第2問】縄文時代はいつ終わるか?

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【答え】日本列島で水稲農耕が開始される弥生時代の開始をもって、その歴史を閉じることになる。


 縄文人は、早い時期から栽培植物を利用していながら、日本列島が畠作に不適な自然条件ということもあって、列島の環境の多様性を最大限に利用する採集経済の段階にとどまっていた(設問68を参照)。そうした縄文時代の採集経済を変革する技術革新が大陸からもたらされることになる。水稲農耕とやや遅れて金属器である。とりわけ水稲農耕は、畦畔や灌漑水路、堰をもち、木製農耕具や石製収穫具をともなう、すでに高度で集約的な農耕だったのである。
 では、なぜ水稲農耕かというと、イネはもともと酸性に強いうえに、どんな酸性土壌でも、水さえはれば酸性でなくなってしまう。そして、水が運んでくる有機質などによって、土壌の肥沃度が自然に維持されることから、肥料をやらなくても連作が可能である。また、畠作では、前作の残り物から病原微生物が蓄積されるので、病害が増え、それが連作障害を起こすことになるが、水をはることによって、土中の好気的な微生物を死滅させることができるので、連作が可能となる。しかも、雑草も、水をはることによって、陸棲の雑草がはびこるのを抑えることができるばかりか、除草も陸棲から比べると格段に負担が少ないというように、雨量が多い温帯モンスーン地域に位置する日本列島では、水稲農耕ほど適した農耕はないということである(池橋宏『稲作の起源―イネ学から考古学への挑戦―』講談社、二〇〇五年。勅使河原彰「縄文農耕論の行方」『新尖石縄文考古館開館五周年記念考古論文集』二〇〇六年)。
 ということは、一九七八年に福岡市の板付遺跡、さらに一九八一年に佐賀県唐津市の菜畑遺跡で発見された、従来の土器の型式観からいえば縄文晩期に属する刻目突帯文土器単純期の水田跡をもって、弥生時代の成立の画期とすることができる(図106)。というのは、板付遺跡にしろ、菜畑遺跡にしろ、刻目突帯文土器単純期の水田跡は、すでに水路や畦畔など水量調節が可能な構造をもっており、こうした構造の水田を経営するには、一定の労働力を、しかも、恒常的に投下する社会的・経済的基礎があってはじめて可能となるからである(唐津市教育委員会『菜畑』一九八二年。山崎純男『最古の農村 板付遺跡』新泉社、二〇〇八年)。
 水田稲作ほど日本列島の環境に適した農耕はないことから、その技術の導入は、豊かな自然の恵みを享受していた縄文人をして、農耕という新しい経済生活に踏みきらせることになった。しかも、すでに四季の食料獲得の方法を熟知し、各地の環境にあわせた食物栽培の知識と経験をももっていた縄文人は、水稲農耕技術を導入するに際しても、従来の縄文地域文化を否定するのではなく、その伝統の上に、新たな稲作文化を複合していったのである(石川日出志『農耕社会の成立』岩波書店、二〇一〇年)。
 しかし、それは日本列島における大きな歴史の転換点となった。北海道、本州、四国、九州の四つの島とその付属島、それから南西諸島からなる日本列島は、それぞれの地域の環境に応じた多様な地域文化を育みながら、独自の縄文文化を発展させてきた。しかも、もともと亜熱帯の植物であるイネが生育するには、北海道の気候は厳しすぎるし、灌漑に適する地形条件のない隆起サンゴ礁などからなる南西諸島では、水田を開く条件がなかったのである。そのために、水稲農耕を基盤とした弥生時代が開始されると、北海道と南西諸島では、弥生文化とは違う、個性豊かなもう二つの日本文化を生むことになる(藤本強『もう二つの日本文化―北海道と南島の文化―』東京大学出版会、一九八八年)。
 北海道では、縄文文化の伝統を引き継ぎながらも、海獣や大型の魚類を捕獲する海洋の民である続縄文文化を生み、やがて北方の民とのつながりを強くもつアイヌ文化を育んでいく。南西諸島では、サンゴ礁の海の幸と貝の装身具を交換材として、後期貝塚文化を生み、やがて中国大陸や東南アジアとの関係を深めながら、琉球王国を形成することになる。
 一方、旧石器時代も含めると、約四万年にもおよんだ採集経済の時代は、互恵と平等主義を基本とする社会であった。それがひとたび水稲農耕を基盤とする生産経済に移行すると、それが最初から高度で集約的であっただけに、それを指揮・監督する首長を必要とし、その首長と農民層という階級分化の進行とともに、土地と水をめぐっての争いが首長の権力の強化と政治的に統合した社会を生み出し、一〇〇〇年前後という短期間に、巨大な前方後円墳を造営するような古墳時代へと突き進んでいくことになる。
 縄文時代までは、主に人間と自然との間にあった対立関係が、弥生時代には、人間と人間との新たな対立関係が生じ、それはやがて国家という機構をつくりだすという、そうした大きな歴史の転換点に、日本列島に居住する人びとが立たされることになった。

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