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溢れ出す無意識

おはようございます。

タイムラインを眺めていて、話題になっているツイートがありました。

「民主主義は極端な話、1人の心の綺麗な天才より10人のアホの意見が優先される仕組み」

ここが論点となり、紛糾している感じです。

このツイートは、スレッドの最後にぶら下がっていたもので、その始まりのツイートはこれ。

そしてその次がこちら。

衆愚政治を議論する勉強会で、アテネの衆愚政治についての話をしたと見受けられます。民主主義を語る時、たびたび話題に出やすい話ですね。
適当に拾ってきた参考ページ貼っときますね。

この記事にもあるように、

プラトンは主著『国家』で、「大衆が過度に自由を求めたとき、民主政は独裁者を生む」と指摘しています。確かに自由を求めすぎる民衆にとって、抑制の利いた政治などただのストレス。ならば選挙の際、自分たちと同じニオイのするリーダーを選べば、彼が分別ある人々を制圧して大衆に「我慢のいらない自由」を供給してくれるわけです。私はパッとトランプ氏の顔が浮かびました。大衆に我慢を求めないリーダーは、要注意ですね。

https://president.jp/articles/-/50220?page=2

と、ある否定したい対象を揶揄する際に使われやすいイメージを持っています。
この記事ではトランプさんですが、今回の件だと政党維新ですね。

とはいえ、民主主義の成れの果てと言える衆愚政治は、わたしたちが生きているこの国も、いずれそうなりかねないわけです。

その点を危惧した結果、先のツイートがなされたと考えます。

ですが、どうしても、維新憎しから、それを補完するために付けた知識として、いわゆる認知バイアスに近い、こじつけにも見えてきます。
そういうの知っちゃうと言いたくなるじゃないですか。
わたしは、影響を受け易いので、よくある。わかる。

更に言えば、維新を選挙という民主主義によって選択した市民たちに向かって、バカと愚弄しているまであります。

そこは意識的なのか無意識なのかわかりませんが、本音が透けて見えたと考えるのが妥当でしょう。

そういうところが、今回の紛糾に繋がっているというのが、大方の見方ですね。


さて、民主主義はどうして衆愚政治になりえるのか。

単純に考えれば、バカが選んだやつはバカだから、バカな政治が行われて滅ぶって話ですね。

だけど、そうなることはなかなかに稀であると考えます。

なぜならば、長い時間をかけて、後に検証した結果、あれは衆愚政治だったと言えるパターンはあると思いますが、その時は民が納得したから選ばれた政治家によって起きたことです。
その時を生きた人たちからしたら、それが最善であったと言えるでしょう。
つまり、後付けで語るならなんとでも言えるわけです。

これに比べたら、独裁政権や、全体主義、軍国主義の国の方が、よほど凄惨な末路を歩んでいるでしょう。
だって、一般市民に選択肢を与えられないんですから。

結果ダメになったとしても、手続きとして自ら選択した結果であるので、それを受け入れるだけの理由がありますが、民主主義の無い国には、そのダメになるという選択肢すら与えられないわけです。

つまりは、国民自らが選択出来るということこそが、民主主義の意義ってことですね。

電気グルーブの歌詞にこうあります。

買ってもらったアニメの主題歌のカセットテープ
歌ってるのはTVとは違う
全然知らないヤツ

なんとも言えないわびしい気持ちになったことはあるかい? - 電気グルーヴ

微妙に意味が違うけど、結果イメージしてた世界と違った時、それを自分で選択したか、押し付けられたかの納得度は全く違うと思います。

ちと話が逸れましたが、衆愚政治と断罪しているであろう、現在の維新の政治に対して、「わたしは納得いかない!」とおっしゃっているのに対し、「民主主義なんだから我慢しろ!」というのは論外です。
だって、そういう不満を言っていいのも、自由の国日本の美徳でもあるわけですからね。
もちろん「我慢しろ!」というのも自由なんですが、それは野暮ってもんです。それに相手が「そうですね…」と納得するわけないんだし。

バカが選んだやつはバカだから、バカな政治が行われて滅ぶ

これもなかなかの野暮な言論であると思います。

よく言う、結論の決まった議論に使われるレトリックですね。

「バカが選んだやつはバカ」と、決めつけてはいますが、それが真である可能性は大きく見積もっても半々ですよね。
そうであったかどうかは、のちの歴史が語ることだし。
今すぐわかるわけがない。
アテネは滅んだけど。

まぁそれを危惧するのもわかります。
国民目線で考えれば、給料上がってない時代が長く続いています。
にも関わらず物価は上がっていく一方。
ポテトチップスの袋の中身はすかすかです。

だから政治が悪い!

のでしょうか?

そんな政治家を選んだ民衆が悪い!

のでしょうか?

わたしはそう考えません。

本来政治家も国民の一人。
いわば同胞、仲間です。

ですが、政治を深く学ばない教育や、マスメディアに長く浸かった場合、この日本では、政治と国民の間に大きな溝があるように思います。

たしかに責任は実行部隊である政治家にあるでしょう。
しかしながら、その部隊を選ぶことこそが民主主義なわけです。

先の方は、もはや民主主義自体に対して忌避感があるのでは?と思いました。

どちらかというと、民主主義をヨシとしない信条を持つ方の言説に傾倒してしまった結果、無自覚な民主主義の否定を、衆愚政治という言葉を使って、正当化しながら、バカな市民のせいでバカな政治を維新がやったんだ!といい変えて、民主主義のディスインフォメーションのスピーカーになってしまた。
って感じではないでしょうか。
まぁ、勘ぐりですけどね。

でも、そうでなければ、「1人の心の綺麗な天才」なんて言葉は出てこないんですよね。

これって、国民の中でもエリートな主席が頭脳となり、下々はその細胞たれ!という全体主義の思考じゃないかな?
意識的かどうかはわかんないけど。

でもまぁ、こういう考え方も一方では正しいのかもしれないとも思います。

最近読んだ御田寺圭さんの「ただしさに殺されないために」という本があるのですが、この本で「言われてみれば…」という内容がありました。

コロナ禍の話です。

 パンデミックの端緒とされていた中国が早々に「コロナ禍」の最悪の状況を抜け出したのもイスラエルと同様の理由だった。かれらはいざというときには人民の私的権利の制限になんの躊躇もない。というより、普段からしていることを、今回の災禍においても行ったーーただそれだけである。かれらは西欧各国よりもずっと人権侵害に慣れている。なぜなら人権への重みづけが西欧各国よりはるかに軽いからだ。だからこそ、中国やイスラエルは「危機管理」において、他の先進各国を凌駕した。P44

ただしさに殺されないために - 御田寺圭

中国やイスラエルだけでなく、民主主義からかけ離れた、いわゆる人権や自由という「垣根」をいつでも飛び越える事が出来る国が、結果的に、コロナを一気に抑えることが出来たというのは歴史的事実です。

「1人の心の綺麗な天才」が、バカな民衆のバカな言葉なんか無視して、ただしい道を示した結果、コロナを民主主義国家よりも早く抑えることが出来た。

日本は、ロックダウンどころか、初期の他国からの流入すら防げませんでした。とはいえ、そんな状況でもここまで沈静化させたのは凄いと思いますけどね。
ですが、民主主義に包括される「人権」や「自由」のせいで、手枷足枷になってしまったということを否定できないでしょう。


今回わたしがこのツイートを見て思ったのは、まさに、民主主義の脆弱性を指摘した上での、全体主義への憧れが、無意識に湧き出しているなぁってことでした。

この手の言説は、結構多くの政治家から見て取れることがあります。

この方のちょっと前のツイートだっけか?見ていたら、人新世を読んでたりして、いわゆるポスト・マルクス主義にも興味があるのかな?というのもあって、反権力に対して傾倒している可能性も確認できます。

むちゃくちゃ暴論だけど、朝日新聞を読み続け高齢者になった方が、いつのまにか共産主義に憧れを持つのと似てる感じでしょうか。

とはいえ、個人的に、社会主義化した日本、いわゆる大きな政府化した我が国の政治体制には、とても強い懸念があります。

これがいい例ですね。

まぁ煽り立てた人たちも多くいたので一概に言えないところですが、国には税金払ってるんだから、公助が当たり前だろ!というのが本音でしょう。
これって、国がサービス機関で、自分たちはお客さんという意識の表れではないでしょうか。

福沢諭吉先生の学問のすすめでも指摘していた部分ですね。

仮にここに人口百万人の国があったとしよう。このうち千人が智者だとして、残りの九十九万九千人は無知の民ということになる。智者の才徳をもってこの民を支配し、あるいは子供のように愛し、あるいは羊のように養い、あるいは脅し、あるいは労る。恩情と威光が共に十分で、ちゃんと国家としての方針を示している。民は何も考えずとも識らず知らずに上の命令に従い、盗賊、人殺しの沙汰もなく、国内は安寧に治まることになるかもしれない。
だけど、この国の国民は「支配者とそれ以外」の二つに分かれてしまってますよね。
千人の智者は、自分の好きな様に国を支配する「主人」であり、その他の国民は何も知る事が出来ない「客分」つまり、お客さんのようなものでしょう。
客分は何も心配することなく、主人の言いなりになって「すがって」さえいればいいのだから、客分は国のことなど考えることなんかするわけもありませんよね。

学問のすゝめ 第三篇 - 福沢諭吉

国家ってのは、主従関係ちゃうで。

それじゃまるで自らが自由を捨てて、隷属への道まっしぐらじゃないか。
ハイエク先生ガチギレやつ。

それに、政府の人たちも普通に税金払ってるしね。
仲間やん。

まぁ、こういう根本的でありながら大事なことを、学校教育では学べない環境というのもあるとは思いますが、そんな事を考えなくてもよかった時代はすでに過ぎ去り、自分が国家の一員として存在していて、政治が一体だったってことに気づいちゃったのが今なのかもしれません。

SNSの出現によって、それが顕著になってきたんだけども、なかなかそれをすんなり受け入れたくないですよね。
自分の責任になんて考えたくもない。

でも、それが民主主義だったりするんですよね。

根本的なベースを叩き込まずに、型破りに走れば、一見派手には見えるけども、中身は果たして。
型を破るには、型を知らなければ、ただの無頼漢に成り下がる。

今回の一見で、この国が抱える問題の根っこの部分がチラ見出来た気がした。


それでは、また。

ありがとうございます! 支援はすべて本に変わりまする。