月の輝く夜に: 光る君へ(44) 望月の夜
1年間、わーわー言いながら楽しんできた「光る君へ」も残すところあと6話。
いよいよ大詰めというところで今回はとうとうきた「望月の和歌」。
………なんだけど、皆様いかがでしたか?
◾️「いやでございます」
面白がる気にはなれないんですが、「嫌でございます」が耳についた回でした。
アバンタイトルでは頼道さんが。
ドラマ本編中では威子さんが。
「そりゃそうだろう」
というシチュエーションで強く言っていました。
頼道さんは、現在の嫡妻(隆姫)を廃し、三条天皇の娘(内親王)を嫡妻にせよと言われ。
威子さんは、9歳年下の甥っ子と結婚しろと言われ。
そりゃー「嫌でございます」になりますよね。
頼通さんの「嫌でございます」は結果的に受け入れられましたが。
威子さんの「嫌でございます」は、はっきり言って無視されました。
お気の毒なことだと思います。
頼通さんの「嫌」が通ったのは、状況が幸いしただけであって、他の事情次第では、愛妻を廃する羽目になっていたかもしれません。
話がそれますが、頼通さんが
「どうしてもというなら、隆姫と共に都を出る」
と言ったときは、既視感を覚えました。
「藤原も、左大臣の嫡男であることも捨て、二人で生きてまいります」
そう聞いて、思わず。
——あなたのお父上はですねえ、若君。
その昔、同じことを想い人に言ってましたんですよー……と思わず遠い目になってしまいました。
いろんなことが見通せてしまうまひろちゃんには、きっぱり「あなたには無理だ」と言われてましたけどね。
続くシーンで道長さんが月を見上げ、同じ月をまひろちゃんも見上げていたのには「そうだろうな……」と思いました。
あのとき本当に二人で駆け落ちしていたら。
――現実的ではないことは承知しているけど、でも、つい、そんな思いを、悔やむようにして思い返してしまう。そんなことは誰にでも一つや二つ、あるのかもしれませんね。
閑話休題。
そうやって本人の意思も幸せも踏みにじる、政略結婚を屁とも思わない道長さんへの、彰子さんからの告発。
「女子の心をお考えになったことはあるのか」
という問いかけも、「現実」の前には無意味となる。
かつては安倍晴明に、彰子さんの幸せを問いかけ、晴明さんには「そんなもの」と言われていた道長さんは。
今は、晴明に言われるまでもなく、自分自身が「そんなもの」としている。
個人の幸せだの本人の意思だの、女子の心だの。
そんなことを考えていたらこの政局には対応できない。と。
対応できなければ、今は絶対に見える権力の座など、もろく崩れていく。
考えたことがあるかないかではなく、考えたとしても無視せざるを得ない。
人を人として扱うことができなくなる場所。
理解はできるけど、嫌な場所だな、と思って見ておりました。
◾️毒か薬か
三条天皇の病状についてですが。
宋の国から取り寄せた薬が原因と言われているようですね。
権力者が最後に望むものは不老不死と相場は決まっております。
古来中国には仙薬と称するものが確かにあったようです。
道長さんや三条天皇が服用した薬には、ヒ素や水銀さえも含まれていたようです。
現代人から見ればびっくりするどころじゃないですね。
不老不死とか言っているけど死にたいのか!? と思いますわ。
三条天皇のあの症状も中毒症状と思えばなるほど納得。
ヒ素はまだしも、なんで水銀? と思うけど、「五行説」に則り、人の肉体(土)を金に変えるという発想だったそうです。
つまり「土」の性である肉体を、永遠に朽ちない「金」の性質に変えることで、不老不死を実現するという考え方です。
古代人の知恵には感心することも多いけれど、あまりにも荒唐無稽で驚くこともまた、多くありますね。
まあ、お化粧に使う白粉だって、わりと最近まで平気で鉛を使っていたし、この辺の知識不足は仕方のないところなのでしょうか。
三条天皇は即位するまでに25年ほどもかかりましたから、健康には気を使い、できるだけ長く健やかに、治世を続けることを目指しての仙薬だったのかもしれませんが、それが病気を呼び、命を奪うことにさえなったのかと思いますと――なんともお気の毒です。
また、そういった薬を道長から三条天皇へ献上した記録もあるそうです。
道長、毒殺する気だったのか、と一瞬驚きましたが、そういうわけではなくて。
道長自身も服用していたのを、健康に良いものだと信じているので帝にも献上した、ということのようです。さすがに毒殺を狙うにしては堂々としすぎですものね。
ある意味、現代の健康オタクの精神にも通じるものがありそう。(健康のためなら死んでもいい、という勢いが)
お気の毒に思いつつ、人ごとでもない気が致します。
◾️それぞれの出処進退
どんな物事も、始めるときより終わらせるときのほうが、じつは難しいのかもしれません。
スタートするときにはそれなりの負荷もかかるけれども、終わらせるときは、そもそも、その「時」の見極めが難しい。
まだいける、まだ大丈夫、ここで止めてはどうなるかわからない——という気持ち。
いろんな事情も思いもある。
それが人の目と心と判断力を曇らせる。
けれども、「通すべき筋道」というものはある。
それを的確に拾い上げて、幕引きを図る。
傍目に見るほど容易なことではないと思いますね。
ということで。
実質、隠居となる出家を決意した為時パパと、摂政・左大臣を辞することにした道長さんでした。
この当時の人は多いですね。ある程度以上の年齢になると、財産を整理して、子孫に譲るものは譲り、自分は出家する。
寺に入る人もあったでしょうが、為時さんみたいに出家はするけどフツーに家にいるという場合も多かったようです。まあ、庵を結ぶにしろ、出家しても何かとお金がかかるから😅
そして道長さん。
陣定はいわば「閣議」ですが、これは帝に政策の提案をするなどの前に、臣下が集まって意見をまとめる会議なんですね。
帝に奏上・報告する事前準備ですから、ここに帝は参加しない。
摂政は帝にも準じる地位なので、陣定には本来、出席はしません。
社長に報告する前に、他の幹部・役員が集まって話し合う会議のようなもの。
その会議に、社長自らが出てこられたら、ある意味、会議が会議になりません。
社長には聞かせたくない話も出てくることもある。
部下からすれば、出てこないでよもー。というところ。
それを長いことやっていたのが道長さん。
左大臣なら大丈夫だけど、摂政という、社長と同じ位置にいるのに、会議になんて出てこないでよ会議にならないよ、あんたの独断をみんなに押し付ける場所にしかならないよ、という、この鬱陶しさ。
議題が「社長をいかに説得するか」なのに、その社長が議長としてそこに座っているのでは、本末転倒というかなんというか。
会議が会議として機能しない。
みんなの「出てくんなよもー」という不満も鬱積するばかり。
これを放っておくとどうなるかといえば、政治クーデターになっていくでしょうね。
今回のドラマでは公任くんが、部下ではなく友人として、「お前、もう辞めろ」と説得していましたが、人々の積もり積もった不満によって失脚させられることが予想できるので、友人からの、ありがたい忠告だと申せましょう。
「今までそれぞれの帝に、辞めろ辞めろと迫ってきたが、今度は自分が、辞めろと言われるのだな」
つって道長さん、憮然としてました。
お気持ちはお察ししますがそれでも、そこで意固地にならず、「わかった。やめる」という選択肢をとったことは、褒めてあげてもいいかもしれません。
そしてそのことを、いの一番にまひろちゃんに報告に来るというところが、道長さんの義理堅いところと申せましょうか。
辞めて息子の頼通に摂政を譲るのはいいけれど、政治を行うにあたっての思い(=理念)は、頼通さんにちゃんと伝えたのか、というまひろちゃん。
あえて伝えたことはないと答える道長さん。
「伝えても、仕方がない」
幼い頃から大家の若様として、まして総領息子として育てられた頼通さんには「民のために」といってもわかるまいというお考えかもしれませんね。
それでも、とまひろちゃんはいう。
今はわからなくても、いつかはわかるかもしれない。
頼通さんにわからなくても、次の世代、その次の世代に、なんらかの形で受け継がれていけば、時をかけて、実現していくこともあるかもしれない。
未来への「種」を、残しておくべきだ。
まひろちゃんはそう思うのですね。
「源氏物語」執筆を通して、作者の言いたいことなどなかなかわかってもらえんのだなということを、実感しているらしいまひろちゃんは。
それでも物語が人々に「語り継がれる」ことを願い、物語の中に、さまざま、未来への「種」をそっと忍ばせているのかもしれません。
今ではなくても未来の誰かが——という視点も、必要なものかもしれませんね。
伊藤若冲が、
「自分の絵は、千年後の人によって理解されるだろう」
と話したことがあったそうです。
今の人々にはわからなくても、千年後に、自分の絵を理解する「友」が現れる、と。
一千年を経ても「友」は現れる。
志を受け継ぐ人は必ず現れる。
種が、光の届かない暗い土中で育ち、芽吹いて草木になるには時間がかかる。
けれどもいつかは一本の木になることを。
あきらめ切って「見捨てて」はならない。
やめるにしても、自分はもうやめるんだから、あとは好きにしろと放り出すのではなく。
のちのちのこともケアしておく——というのは、辞め方としては大事なポイントかもしれません。
そんなことを、まひろちゃんは考えたのかもしれませんね。
※
余談扱いになってしまいますが、倫子さんからきた依頼について。
これが「栄花物語」になっていくと思われます。
思われますが——まひろちゃんにしてみれば、なんでそんなことをわたしに? と思うと、ちょっとざわざわしたかもしれませんね。
◾️めぐる盃
道長以外にはだーれもめでたいなんて思っていない、威子さんの立后。それを祝っての宴の場面で、盃が勧められ、皆で回し飲みしていましたね。
出席者で回し飲みして一巡することを「一献」といい、これを3回繰り返す(三献)。それからやっと通常の会食になったんだとか。
当時の正式な宴会の形式ですね。
今みたいにグラスを持ってかんぱーい、つってすぐに会食とはいかななったそうです。
そして詠まれる「望月の歌」。
今回はどうにも、わたしには「読めない」回でした。
道長さんがどんな心情なのか、何度か録画も見たのですがさっぱり「読めない」。
三后を、自分の娘3人で占めたことを本当にめでたいと思っているのか。
彰子には罵られ、妍子と威子にはこのうえもなく恨まれていることを、なんとも思わないのか。
「この世をば 我が世とぞ思う」
という言葉を、どんな心情で、どこまで本気で思って歌うのか。
ぜーんぜん読めません。
これまではそれなりに、道長さんの心情をある程度、推測することができましたが(ハズレであることも多々あるでしょうが)今回は完全にお手上げです。
牽強付会の解釈、やろうと思えばできるけど、どんな解釈をしても必ず、裁断を間違えた布地をミシンで縫い合わせてしまったときのように、変なところに変なふうに「余り」が出てきて気持ちが悪い。
この望月の歌も、今までは道長の非常な傲慢さが現れているというのが一般的な解釈でしたが、最近ではそれ以外の穏便な(?)解釈、学説も現れているそう。
ましてこのドラマでは、ホワイト道長を指向しているので、目の前のブラックぶりと、設定されているホワイトぶりを、どう擦り合わせて読めばいいのか、わたしにはさっぱりでした。
脚本にはどんなことが書いてあり、俳優さんはどんな解釈で臨んでいるのだろう——なんてことをうっすら考えておりました。
ただ。
明るい、輝く月を見上げ、そこから金粉のような光が舞い落ちる演出、道長さんがまひろちゃんを振り返る様子を見て、あっと驚いたのでした。
まさかこの望月の歌で、ふたりが初めて結ばれたあの輝く月夜が浮かび上がるとは!
主人公たちの心情についての解釈はわたしにはできないけれど、それでもこのドラマはすごいなと思った瞬間でした。嫌味とかじゃなくて本当に。
自分が何に感動しているのか今もわかりませんが、でも、あの場面で、感動したんですよねえ。たしかに。
世の人の多くが、非常に傲慢な権力者の歌だと思っている望月の歌、そのイメージを、予想もしなかった方向へぶん投げてひっくり返しちゃった。
これは単純に、「すげえ」つって感心してよいのでは? と思います。
今回は、以上でございます。
あと6回。
前代未聞のソウルメイトの、壮大なこの物語。
どうなっていくのでしょうか。