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外国語の校歌

 今日のお話は少し気をつけながら書くことにしたいと思います。
 外国語による高校の校歌のお話。

 関係者の健康状態、それどころか命の危険さえ危ぶみながらの高校野球全国大会も閉幕となりました。

 わたしは一度も拝聴の機会はなかったのですが、今回の出場校の中に、前身が外国籍の私立学校だったという高校があったそうで。
 その関係で校歌の歌詞が日本語ではない外国語であったとのことで、だいぶ、反発する向きがあったようです。

 外国籍の私立学校の場合、日本の学制とはカリキュラムその他が異なるために、扱いとしては各種学校、専門学校の扱いになるそうですね。
 高等学校と名乗ったとしても、日本の高校卒業とは認められない。

 しかしながら今大会に出場しているからには、前身は各種学校だったけれども、現在は日本の学制、カリキュラムに従って日本の学校としての資格はあるんですね。(ね?)

 わたしとしてもその校歌の歌詞があの外国語であると聞いたときは、こういうとなんですがすっごい不快感を覚えました。

 わたし自身はその国に対して、よい印象など何ひとつない、という状態だからです。
 なぜよい印象がないかについてはいちいち語っていてもしょーがないので申しませんが、note の方にはございませんがブログには、「なでしこアクション」のリンクがございますのでそちらをご覧いただければと思います。

 その外国語が日本の高校の校歌に現れているということで、これはもうどうしようもない不快感が一気に込み上げてまいりました。
 
 しかし次の瞬間、わたしもはたと考えた。
「これが他の外国語、例えば英語だったら、どういう反応になるだろうか?」

 戦後からこっち、日本で制作されリリースされる曲は、多くは、「部分英語」が当たり前になっています。
 基本、日本のポップスなんだけど部分的に英語が混ざる。
 それはもう当たり前になっていて、誰も不思議とも思わない。
 ましてや「不快」とは。

 とはいえ、戦争中は英語は「敵性語」だったわけで、あの時点ではやはり、英語は英語であるというだけで忌み嫌われていたんですね。

 わたしの脳みそが勝手に炎上しそうなほどのこの不快感も、戦時中の「英語忌避=敵性語」という発想と同じだろう。そのように思いました。

 仮にどこかの高校の校歌が、ポップスと同じく「部分英語」だったら。
 なんじゃそりゃ、と呆れはするだろうけど、別に不快には思わないはず。
 
 であれば、今回話題になったその学校の校歌が外国語であったとしても「なんじゃそりゃ」ではあっても、排斥を求めるほどのこととはいえない。

 そのように結論づけました。

 わたしと同じく不快がる人々、その人々が「懸念」していることもよく理解できますが。
 ものの道理というところから考えていくならば、排斥はいせき、排除を求めるのは、適当なこととはいえないでしょう。

 その学校の「実態」がどうであるかもわたしは存じません。
 その外国籍の人々「ばかり」の学校なのか、普通に、一般の高等学校として日本人も多く在籍する学校なのか。
 運営資金はどうなっているのか。等等。

 詳細を聞けばまた話が違ってくる可能性もなくはないですが。

 シンプルに、「高校の校歌が外国語であることを排斥するのは、妥当か否か」というテーマだけで考えますと。
 それは個人の好き嫌いの感情に支配されすぎた行為であって、妥当とはいえない。
 という結論に至りました。

 それにしても。
 多分、一瞬で感じた不快感には「不意打ちを食らった」衝撃のせいもあっただろうな。

 びっくりしたんですよ要するに。

 人は、よいことでびっくりするのは歓迎だけど、心地良くはないことでびっくりさせられると防御反応として「怒り」ますからね。
 わたしの今回の一瞬の反応も、そんなところだったんだと思います。

 ふつうに街を歩いていたら、物陰から急に飛び出してきた誰かにびっくりするときのように。
(その人は急いでいたので道へ飛び出してきただけだけど、急にそんな人に遭遇した方は、一瞬、危険なことかと思って驚き、身構える。そういう反応)

 日本の学校の校歌はこういうもの、と漠然としたイメージがあって。
 そのイメージが打ち破られたわけですね、今回。
 当たり前ではないことを当たり前だと思い込んでいる、そういう自分に気がついた。——そんな事例の一つと申せましょうね。

 長生きをしていると予想もしない事態に出会うこともある。
 今回は、そんな現象のひとつだった、と。
 そのように思いました。

 
 

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