咲くや この花 : 光る君へ 32回「誰がために書く」③
これを「光る君へ」の感想に含めてしまっていいものかと迷ったので、別問題、別の話題として書いてみます。
32回「誰がために書く」で、中宮様付きの女房として内裏に出仕することになったまひろちゃんに対し、父上の為時さんが
「お前が女子であってよかった」
と涙ぐんでいう場面がありました。
それまではさんざん「おまえが男であれば」と言って惜しんできたパパですから、これはなかなかのシフトチェンジだったのでしょう。
幼い頃からそんなことを言われ、女であることが「失敗」であるような、そんな自分も「失敗作」であるような——そんな気持ちもまひろちゃんにはあったのではないでしょうか。
為時さんの言葉が意外すぎて、最初にはびっくりし、次いで、そんなわだかまりが解けて、同じく目に涙を浮かべて微笑むまひろちゃん——という場面でした。
これに反応していた女性視聴者は多かったように思います。
多かれ少なかれ、女性はそういう「否定」を背負わされてきたわけで、あの場面のまひろちゃんに思わず感情移入し、為時さんの言葉に救われたように感じたかたも多かったでしょう。
だがしかし。
へそ曲がりのわたくし、あれでもまだ引っ掛かりがありました。
まひろちゃんは女性であったので、かな文字の物語を書いた。
それが中宮様にお仕えすることにつながったわけですから、それはよかった——とは思うけど。
——出世できたから、女でよかったと言うのか?
と、どーも引っかかったのですね。
わたしの感覚では、どんな理由や基準であれ、男性女性であることををジャッジするのは「的外れ」である、と感じます。
「男に生まれていたらよかったのに」というのと「同じ」なんですよね、あの為時さんの言葉は。
今まで裏目になっていたのが何かのはずみで裏返った。
それをいいとか悪いとか言っている。
価値観としては同じ。
裏が表になっただけ。
——と感じたんですが、この「感想」が妥当かどうかはわたしにもちょっと判断つきません。
わたし自身のコンプレックスを投影しているだけという気もします。
それはそれとして。
であれば、ならば、どういう「評価」になればわたしもまひろちゃんのように、涙ぐんで喜んだだろうかと考えました。
結論。
「まひろちゃんが、まひろちゃんでよかった」のだ。
今回の「出世」も、女性なら全員できうることかというとそんなこたーない。
一条帝も認めるだけの学才があり、文才があり、創造性、発想力等々を備えているまひろちゃんだからできたこと。
女性だったから(学問や政治ではなく)文学という分野で花開いた、とは言えるかもしれない。
彼女が男性であれば、学者や官僚として出世したかもしれない。
つまるところ、まひろちゃんがまひろちゃんという個性の持ち主だったから、その個性が開花したわけですよ。
あの場面でまひろちゃんを言祝ぐなら、
「女子でよかった」
のではなく、
「まひろちゃんでよかった」
のだと思いました。
まあ、男女の別なく、素晴らしい才能、才覚、個性を持っていても、社会の中で開花するとは限らない。
物語、文学の興隆も、他の天皇の治世であったら、実現しなかった可能性の方が高い。
時流に合う、というのはこれはもう、個人の才能や資質を超えた「運」になります。
残念ながら運に恵まれず、「才覚と出世が見合わない」男性の例は、容易に想像できるでしょう。
男性女性は、関係ないこと。
評価すべきところがあるとしたら性別ではなくて、あくまでも、まひろちゃんという「人そのもの」。
性別は人生においては重大事の一つではありますが、とはいえそれも数多くある「属性」の一つに過ぎません。
なので、あの場面で見て欲しいのは、彼女の性別ではなく、彼女自身の姿だったのだ。と。
わたしはそんなふうに思ってみていたのですね。
だから為時さんのお言葉には、正直、物足りないものを感じた。
そういうことのようです。
適材適所という言葉があります。
今後の時代は
「置かれた場所で咲きなさい」
ではなく、ことさらに、
「花咲ける場所(環境)へ行きなさい」
そういうことになるだろうし、そうであって欲しいと願います。
たぶんそれが人と人の世の、本来あるべき姿であり、わたしが心の深いところで望んでいること。
そんなふうに思いました。
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