風の行方
玄関ドアを開けると、私の身体と共に大量の空気が中へと吹き込んだ。その風に触れて、家中のあらゆるものが転寝から目覚めたように身震いする。一つひとつは小さくても、それが総体となって揺れ動くことにより、私には家自体が一つの生命体として活動を開始したように感じられた。興味深いその発見に一瞬気を取られたが、私はすぐに目の前のリビングへつづくドアが閉まろうとしていることに気がついた。私によって開かれたまま放置されていたそのドアは、今、外から流れ込む気流に乗って閉まろうとしている。私は粘るように遅く、しかし着実にあるべき姿へ戻ろうとするそのドアの運動を、一コマの空白も出さないよう光を眼球へと集中させて凝視した。それはさながら初めて立ち上がろうとする我が子を見守る時のような、息の詰まる時間であった。眼前のドアは一定の速度を保ちながら動き続けている。フレームに収まるまであと二十センチ、十五センチ、十センチ。もう閉まるといった所で私の緊張は極限に達した。すると次の瞬間、ドアは突然加速を始め、けたたましい破裂音と共に一瞬にして静体となった。私には何が起こったのか分からなかった。しかしそれが帰宅してから今までの間、完全に忘れていた聴覚への不愉快な刺激であることを認識すると、私は直ちにこれまでの一連の出来事に整合性を与え、いよいよ現状を俯瞰的に理解できるようになった。それと同時にあることに気がついた。
誰か居る。
私は確信した。この家には私以外の人間が居る。しかもかなり近くに。私は回復した聴覚によって敵の位置を探ろうとした。リビングか、隣の自室か、それともトイレか。しかし私の感覚は浅い眠りから起きたばかりのように鈍く、奴の居場所を把握することはできなかった。だから私は、最悪丁度手に持っているこの本で殴ればいいと思った。作家の顔が血に濡れる姿を一瞬想起して、もしかしたら彼に失礼なのではないかと思ったが、それも今は仕方のないことだとして単純に納得した。
私はまず、玄関から一番近いトイレへと歩みを進めた。距離は二、三歩ほどではあるが、さっきまでとは打って変わって生気を失くしたこの家の静けさが、私の精神をひどく萎縮させた。ドアの横に着いた私はノブへ腕をそっと伸ばし、音を立てないよう慎重にドアを開けた。反応はない。中を覗く。誰も居ない。トイレに奴は居なかった。確かにトイレには誰も居ないような気がしていた。
次に自室へと向かう。曖昧ながらも相手はここに居ると感じた。ドアを開ける。今のところ姿は見えない。私は半身だけ踏み入り死角を伺う。しかしそこにも姿はなかった。見えるのは机と本棚とそこに詰め込まれた本の群、そしてギターやピアノ、何着かの服といくつかの雑貨。いつもと変わらない景色と、やけに静かなその空間に、私は少しばかりの苛立ちを覚えた。
最後に私はリビングへと向かった。その前に立ちはだかる例のドアは、もはや何のために存在するのか分からなかった。それはすでに、ただの邪魔な無機物へと化していた。私は一応普段よりも丁寧にそのドアを開け、そそくさと中に入ると、後ろ手に急いでそのドアを閉めた。それは奴が背後から襲ってくるかもしれないと、多少なりとも思ったからだった。数歩進んで辺りを見回すが当然誰かいるはずもなく、私は失意と共にダイニングテーブルへ本を置くと、近くのイスへと座り込んだ。結局私の奴への警戒は徒労に終わった。すべては落ち着き、私もまた家の一部になる思いで、じっと、ただ目の前の本を見つめながら座った。息吹を得たはずの家も、武器として私を守ってくれるはずの本も、今となっては私に敵対するか、もしくは私を無慈悲に飲み込んでしまうように感じられた。
するとふと、玄関の鍵は閉めただろうかと思った。おそらく閉めたようには思うのだが、もしかしたらあの強烈な風に注意を奪われ、玄関の鍵など閉め忘れてしまったかもしれない。そうだとすると、いつ私の家にどんな奴が入ってくるか知れたものではない。焦りを感じた私は即座にイスから立ち上がると、玄関につづくそのドアの前へと進んだ。それは相も変わらず無機質な容相であったが、それでも私は一抹の期待を抱えながらそのドアを開けた。