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呼ばれてる

書いてる。生計のための仕事とは別に、今、小説を書いてる。

年明けから自分がぐらぐらに揺れて、各方面に頼りたくなった。柱が欲しくなった。それを外部に求めたので、いろんな人に小出しに頼ってみるも得たいものは得られなかった(当たり前だった)。

2月、友人の「こういうのが読みたいな」という言葉でひとつ小説を書いて、3月にケイクスのコンテストに応募した。初めてファンタジーのない小説(といっても短いけど)を出してみて、そこから書くのがすごく怖くなった。次のnoteが出せないまんま時間が過ぎた。あの怖さは、すごく傲慢な怖さで、あの小説だって直したほうがいいとこがいっぱいあるのに、さらにnoteを出すなんて虚しいだけだ、みたいな、もうあれ以上にちゃんと書ける気がしないだとか。燃え尽き症候群とかいうと聴こえがいいけど、くすぶってただけだった。

4月から生活が激変して、疲れて、雑巾みたいな自分になった。noteを書きたい気持ちと書けない気持ちでぐちゃぐちゃで、人に会いたいと思うと同時に、ひとに会わないことで孤独がどんどん煮えて濃くなって。それが心地よい自分もいて。

しんどさにも慣れてきて、5月。窓の外がすっかり明るくなった。そうして、先週かな。ああわたしはもう、ものを書いてご飯を食べる人でいたいんだとわかってしまって、その事実を思い出して今も泣けるんだけど、とにかくわあああと湯船で泣いて、新しい小説にとりかかった。なんで泣くんだろうね。決断って深ければ深いほど腹の底にくるものがあって、目から涙を出すくらいしか出口がなかった。

成人してから初めて物語を書いたのは2018年9月17日。ずっと行き渋っていたクリエイティブライティング講座だった。この日の感動は忘れがたい。自分から言葉が出てきて、ペンを握る手が脳に追いつかない。もどかしくて言葉が重なり、何度もぐしゃぐしゃにペンで塗りつぶしてまた紙の脇に書き直した。それを人に読んでもらう。沸き立った。総毛立つ。ずっと膝が笑う。足の裏はもうずっと歓喜して踊っていて、帰り道。池袋の駅に向かって歩く自分の身体は、もうわかってたんだ。ずっとこうしてたいって。自分で書いて、それを読んでもらうのが一番気持ちいいって。どうしてこんな自分に会っちゃったんだろうと。踊ってたかった。ずっと。

それを脳みそが理解して、受け止めたのがつい数日前。そんなタイムラグがあるのかよ。1年8ヶ月もかかって脳みそに届く電気信号ってなに。手紙よりも遅いじゃないの。

そうして、今も書いてる。

書くたびに見えてない部分が浮き彫りになる。あの背景が見えてこないとか、空気が感じられないとか。自分の語るものが薄っぺらく、吹けば飛ぶような弱い文字に見えて嫌になる。もおおおおお、と言いたくなる、実際に言ってる。

今わたしが書いている物語はあまりに現実すぎて、それは出してみたアイデアが自分の過去の焼き増しみたいなもんだったからなんだけど、どうにかこれを違う世界にもっていきたくて、なんかその引っかかりがやってこない。引っかかりがほしい。いつか来るはずと信じて、一旦放置するほかないのだけど、ずっと頭にある。物語の中のあのひとが前を向くような、なにかがないか。あのひとは過去のわたしの一部でもある。だれかの未来になってほしい。そのためには、救いか、あるいは背中を蹴ってくれる存在にあらわれてほしいのだけど。

最近、ずっとどこからか自分が呼ばれてる心持ちで、もっと書いて語って歌っていたい。けれどいざ文字にするとふっとそこから中身が消えてしまう。失った、と思う。さびしさがへその辺りにたまって、お腹が痛くなる。書きたかったことが泡になるのは辛い。

プロってなんだろう。きりきりする。

正しいとか間違ってるとか、あまり考えないで生きてるけど、胸に浮かぶ炎だけが指針で、その他には何も持たずに歩く。

今はひとりでこの道を行ってみたい。しいたけ.さんも、5月の魚座はひとりでいくといいね的なことを書いてたよ。

ああでも、途中で犬とか猿とかキジとか、鬼とか出てこないかな。これを物語にしてしまいたい。誰かに会いたい。Somebody , not anybody. なんの歌詞だったか。孤独のまんま、ひとりのまんま、寄り道みたいに会いたい人がいる。

このきりきりを抱えたままでいいから、熱だけは失わずにいたい。

今だ、と思う。今、進むときだと思う。柱は自分の中にある。

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