よもぎ公園の夜

うっすら暑い。汗ばんでいる、白いシャツの中であずき色のヒートテックがきゅっと肌をしめつけている。太ったのかもしれない。
家を出たゆきちゃんはよもぎ公園まで歩くことにした。途中でセブンがあったから寄って、鮭のおにぎりと蒸しパンと紙パックのオレンジジュースを買った。袋ももらった。蒸しパンは、よもぎ公園の池の鯉にも半分あげるつもりだ。よもぎ公園は本当は坂下第二公園という名前だけど、たくさんよもぎが生えてるからヨコさまがよもぎ公園と呼び、それがふたりの中の共通認識になったので、ゆきちゃんとヨコさまが友達をやめたあともずっと、ゆきちゃんにとってそこはよもぎ公園だった。ゆきちゃんたちは同じ男性を好きになり、男性は、ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な、と人差し指を左右にふって、結局なんだかんだあってヨコさまを選んだので、ヨコさまが「友情も恋愛も同時にゲットするのは気が引ける」と言って友達をやめることになった。
ゆきちゃんがよもぎ公園に着いたときにはもうあたりは暗くなり始めていて、空は薄紫と濃い紫のグラデーションになっていた。こうゆうのがいちばんきれい、とゆきちゃんは思った。街灯はまだついてない。小鳥の集団がひとつの樹上にあつまってびちびち鳴いていた。ざわついて振動する葉っぱを見上げて、ゆきちゃんは笑顔になった。
ゆきちゃんがすずめの木を通り過ぎて、公園の真ん中の池についたとき、そこには釣りをするじいさんが二人いるだけで他にはだれも見えなかった。じいさんとじいさんは池のふち沿いに二十メートルばかし離れた場所に折りたたみの椅子を出して座っていた。ゆきちゃんは池に向かって座るじいさんたちの後ろをスキップして通り過ぎた。バレないよう、音を立てずにスキップをする遊びは、昔からずっと楽しいことのひとつだ。ゆきちゃんはどんな場所でも無音でスキップができるのが、誰にも話したことのない自慢のひとつだった。しかし実はじいさんのひとりはゆきちゃんの、るん、とした静かなスキップに気がついていて、そのリズムに合わせてわずかに釣り竿を揺らしていたのを、ゆきちゃんは知らないのだ。ゆきちゃんはじいさんたちから見えないだろう場所までは、るん、るん、とスキップをして、その後はしっかり普通に、歩いた。
じいさんたちが大きな水をはさんで、こちらに向かって糸を垂らしている。ゆきちゃんは池のふちに近いベンチに座った。まずオレンジジュースを出して、ストローをさした。飲みながら、上着を脱ごうとして少しこぼした。紙パックにも指先にもオレンジジュースのぺとぺとした物質が残って、なんだか嫌だった。ヨコさまは、こういうヘマはしなかった。こういうヘマをしないということがやはり、天の神様に選ばれる理由かもしれなかった。紙パックはベンチの足元においた。あとでちゃんと持って帰ります、と周囲に宣言しながら。
ゆきちゃんはおにぎりのことを忘れて蒸しパンを取り出し、大きめのひとかけらをむしりとって、口にいれたまま、小さめのひとかけらもむしりとって、ベンチを立った。池のふちは石造りで、ぎりぎりに立つとそれだけで鯉がわらわらと寄ってきた。始めは数匹だった鯉が、我も我もと集まって、うねりながら塊になり、水を伴って流れを作る。その鯉の中から、特別な鯉を探した。何匹もの鯉の中から、ゆきちゃんはいつも、特別な鯉を探して、あいつにしよう、と決めて狙って餌を投げた。そうするとなぜか、本当にその鯉がゆきちゃんの投げた餌をきれいに吸い込んでくれるのだった。だから今日も、ある瞬間に惹きつけられた鯉を特別な鯉だ、と決めていつものように蒸しパンを投げた。ゆきちゃんは口の中の蒸しパンを、特別な鯉が食べるのと同じタイミングで飲み込むのが好きだった。
もう一回、さっきと同じ特別な鯉の口元を狙ってパンを投げた。ゆきちゃんには、うねる塊の中にあっても、どれが特別な鯉なのかすぐにわかるのだ。パンは水面に落ちる一瞬前にはもう磁力で吸い寄せられているかのように、水の流れに従順だった。やっぱり、ちゃんと狙った鯉が食べてくれるものなのだ。蒸しパンはあと少しになった。空気は湿気て冷たく、水面は黒く濃くなってきた。じいさんたちは揃って、足元になにかのライトをつけて置いた。背の高い街灯もぽ、ぽ、と順に光り始め、最後の蒸しパンが特別な鯉に吸い込まれた。頬の内側でうす黄色い蒸しパンがじゅわっと粘膜にしみて、つんとした。
ゆきちゃんがベンチに座っていたそのとき、ヨコさまは男性の部屋にいた。男性の部屋の玄関をあがってすぐのところに、男性が脱いだらしい白い靴下が丸めてひとつ、ほおってあって、ヨコさまにはそれが、かたつむりみたいに見えた。見つめていると「そういうの、気になるなら拾っておいて」トイレに入る直前の男性がジーパンのジッパーをおろしながらそう言うので拾った。ヨコさまはかたつむりが好きだった。けれど手のひらの上のそれは、ぬくかった。だから、外に出すことにした。じょろじょろと排尿する音が聞こえた。キッチンの壁にある窓の下、1階のあの辺りにはアジサイがあるからちょうどよいと思った。窓は施錠されていなくて、スライドするだけでカラカラと開いたから、手のひらにのせた靴下をそのまま、ほおった。風はなかった。シンクの前につまさき立って窓から下をのぞくと、土の上に丸まった白い何かがただころんと転がっていて、アジサイのすぐ近くにあったから大成功だ。
ヨコさまは男性から、次に必要なら買っておいて、と頼まれたコンドームの箱をバッグから出して、薄い透明フィルムの端っこを引っ張って剥がした。中から出てきた6個の四角いビニールを、水色の枕の上に一列に並べて、慎重に向きを整えた。そうして靴をはいて外に出た。ドアが閉まった後もちょろちょろした音はまだかすかに続いていて、あんまり男性の排尿が長いので、始めは面白がっていたヨコさまも段々と、ちょっと気色悪いなと思うようになった。
男性がジッパーをおろしたままトイレを出てきて、ヨコさまの不在に気づいた頃、もうヨコさまはセブンにいた。昆布のおにぎりと、リンゴジュースと、蒸しパンを買うのだ。ヨコさまは意気揚々と五〇〇円玉をレジの自動精算機に投入。おつりをとって、よもぎ公園に向かった。
よもぎ公園に東から入ると、まず背の低い遊具があって、進むと少し大きな遊具がある。大きな遊具は魅力的だったが、通り過ぎた。目の前には芝生の広場があって、更に進むと、やっと池があらわれる。じいさん二人がめいめい持参の椅子を出して、少し離れて座っている、その真ん中にあるベンチにバッグを置いて、ヨコさまは蒸しパンの袋を開けた。池のふちに立つと、黒いうねりが足元に集まってきた。ヨコさまは蒸しパンをちぎりとって、目をつむった。そして、パンを前に向かって放り上げて目を開けた。空中を舞ったパンは、ある鯉の前に落ちて、池の水とともにその鯉の中に吸い込まれていった。ヨコさまは、特別な鯉はあいつだったのね、と思って納得した。納得するのが大切だった。立ったまま、残りの蒸しパンを黙って食べた。あんまりおいしくなかった。鯉のうねりは止まらない。期待にあふれた硬いぶあつい唇が、偶然を求めてばくばくぱくぱくと呼吸している。鯉が唇を開くとその瞬間、水面の波のうねりを上書くように、短くて強い水流が現れて即、消える。ヨコさまはすべての蒸しパンを食べきった。もう、どの鯉が特別だったのかわからない。たった一度だけだから特別なんだよ、と思った。そうして、池のふちに沿って歩き始めた。
ゆきちゃんが鮭のおにぎりを食べていると、池をはさんだ向かいにあった光のひとつがゆらりと弱まった。少しして、また光り始めた。ベンチにくっつけた背中が冷たい。尻も。そばにおいた上着を着ようと手をのばしたら、人の歩いてくる音がして、街灯にぼんやり照らされたのはヨコさまだった。ゆきちゃんとヨコさまが友達をやめてちょうど、一ヶ月だった。
ヨコさまは「こんにちは」と言った。あたりはもう暗くって、ヨコさまの声は明るくも暗くもなく、乾いても湿ってもいなかった。鮭おにぎりがのどにつまりそうなゆきちゃんがあわてて上着をどかすと、失礼します、とベンチに座った。その頃、男性はベッドに腰掛けて、暗い部屋で枕に並べられたコンドームの箱を手指でいじっていた。
ヨコさまもゆきちゃんも、しばらく並んで池をながめていた。猛烈な勢いでうねりを作る鯉の姿はもうなくて、ときおり弱い風に吹かれて水面が勝手に揺れた。
「元気だった?」
おにぎりを飲み込んで、ゆきちゃんが言った。おにぎりをくるんでいたビニールはポケットに押し込んだ。
「あんまり元気じゃなかった」
ヨコさまがこたえた。ヨコさまは間違いなく正直だった。
「ゆきちゃん、わたしあの人との恋愛をやめるから、また友達になってもいい?」
池をただじいっと見て、目を見開いたゆきちゃんは次に、唇をうーっと前に突き出して、への字に曲げて、いかにも悩んでいる顔をした。
「あのひと、いまいちだった?」
「うーん、そうだね、いまいちだった」
ヨコさまはこの一ヶ月を思い出しながら話した。
「彼の手はちょうどよく湿っててすべすべしてて、手をつなぐのはすごく気持ちよかった。親指の爪の平たい感じもよかった。でも、背中からセロリのにおいがした」
「あー、それはちょっと」
「さすがにセロリは困っちゃった。あと靴下をそのへんにほったらかしにする」
先程の丸まった靴下のことを思い出して話すヨコさまの顔を見て、ゆきちゃんは言った。
「靴下くらいならわたし、無視できるよ」
「わたしも拾ったよ」
「拾えるなら、いいじゃない」
「うん、靴下は、別にいいの」
拾って、投げたけれどね、と思いながら、でも、とヨコさまはこころの中で続けた。
コンドームを自分で買わない男だった、と言いかけて、言わなかった。どんなにダメな男のことでも、これは言っちゃいけない気がした。
言ったらきっとゆきちゃんは、あからさまにうげーーーっと顔をしかめてくれて、それを、ジブリで見たことある顔だ、とヨコさまは笑うだろう。笑えるだろう。そういうふうにゆきちゃんに簡単には甘えないのがヨコさまだった。ヨコさまは黙っていた。
黒い池の前で、ただ静かに湿った公園の中で、唇を突き出したゆきちゃんは、うーんと声に出して悩む様子を見せて、その実は全く悩んでいなくて、そうして、うん、とうなずいた。
「うん、また友達になろう」
「よかった」
「でももう、誰を好きになっても秘密にしようよ」
「そうね、誰かにその人のことを言っちゃったらもう、その人は特別じゃなくなるしね」
ヨコさまがいうと、ゆきちゃんは眉をあげて、わからないわって顔をした。
「うーん、宣言してもしなくても、特別は特別だよ、絶対だよ」
ヨコさまは、ベンチに浅く座って、背もたれによりかかった。そうかなぁ、絶対は絶対だけど、でも特別ってそういう感じじゃないと思う、と言った。言ったけど、ゆきちゃんは返事しなかったし、ヨコさまも全然それでよかった。
池の向こう側にある光がひとつ、ふたつと順に消えた。じいさんたちは帰る時間だ。釣具を背に、近くのスナックに寄り道して、ビールを飲んでママの歌を聴いてまた、えっちらおっちら帰るのだろう。
ゆきちゃんとヨコさまは歩き始めた。ゆきちゃんはオレンジジュースの紙パックをベンチの下に置いたのをすっかり忘れていたけれど、翌朝それは近くに巣を作るアリたちによって大発見されたから、そのままで問題なかった。
セブンじゃなくてローソンがある側の出口、に向かって歩いていると、よもぎ公園がよもぎ公園たる理由、よもぎの群生地に行き当たった。ヨコさまはしゃがみこんでよもぎの葉を手で優しくすりつぶすようにして、目に見えない緑色の成分を肌にこすりつけ、その手指を自分の鼻に近づけた。いい匂い。隣にしゃがんだゆきちゃんの鼻にも近づけた。ゆきちゃんも、いい匂い、とうっとりした。うっとりしたゆきちゃんに、ヨコさまもうっとりした。
ゆきちゃんは、よもぎだらけのくさっぱらで、勇気を出して言った。
「もうさぁ、友達、やめたくないな」
ゆきちゃんはよもぎのびっしり生えた地面の湿った感じを指でなぞって言った。言った途端、胸がぎゅっとしてあつい涙がすぐにこぼれた。
ヨコさまも、勇気を出して言った。
「ごめんね」
もう、ずっと友達でいようね、と言った。
ふたりはローソンに向かうことにした。ヨコさまはゆきちゃんの手をとって、しっかり握った。ゆきちゃんは鼻水をすすって、涙をぽろぽろとこぼして、真っ赤なほっぺたで、かっこいいね、とヨコさまを讃えた。公園の出口のすぐそばにあるローソンはぴっかりと輝いて、陽気な青色の光線を放っていた。からあげくんを買おうね、とふたりは話した。
その頃男性が何していたか、誰も全く気にしていなかったからもはや、分からない。ただ、白い靴下は黒い土の上で、アジサイらしい葉の裏を見上げて、かたつむりらしく満足げに転がっていた。




ちいさな小説でした。

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