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括って、繋いで、追いかけて

はじめはベビーカーに乗せるか抱っこ紐を使って身体に括り付けて、そのうち歩けるようになると手を繋いで。
そうしているうちに私の手を振りほどいて走っていく後ろ姿を追いかけて。
暑い日も、寒い日も。晴れの日も、雨の日も。

セキュリティを解除して建物に入る。たくさんの元気な声が弾む園内、お友達を見つけて親を置き去りにして教室に走っていく子、離れるきっかけを逃して朝から泣いてしまう子、毎日の朝の風景。
先生を見つけて挨拶に続けて「変わりないです、元気にしてます」と定型文のような申し送りをして、お迎えの時間をノートに書いて駅へ急ぐ。
気持ちいい日も、そうでない日も。元気でも、疲れていても。

10年続いた保育園へこどもを送ることから始まる毎日がもうすぐ終わる。一番大変だった時のことなんて思い出せないくらい必死だった毎日が、過去のものになる日が近づいてきている。


はじまりは上の子にとって初めての、私にとってもこどもと過ごす初めての冬、たしか1月の末だった。区役所から届いた1通の封筒。
保育園への入園を申し込んで許可通知がくる、なんにもおかしいことなんてないのに、その現実を、ガラッと変わってしまう毎日が4月から始まりますよという通知を受け取った私はものすごく動揺していた。
今もそうなのかな、当時は保育園に入園するのがとても困難だったから、申し込みをしたものの心の中では、「入園できずに、表向きは泣く泣く心の中ではしめしめと、育休延長」をするつもりでいたのに、届いたその通知によると「泣く泣く」も「しめしめ」もなくどうやら預け先を割り当てられたようだった。
もう少し先になると思っていた生活が、3段飛ばし位の勢いで突然目の前にやってきてしまった。

当時は、認可保育園への入園許可が下りた後自己都合で辞退すると、ランク(その家庭がどのくらい保育を必要としているかの指数で、たしかAからGなどとされていて自分がどのランクなのかはどこにも公表されていないので基準を基に自分で判断するしかない、入園を目指す人には超重要なのにベールに包まれすぎの存在)は最低となり、実質その後の認可保育園への入園の道は絶たれてしまう。一度入園が認められてしまうと『そんな生活望んでないです』という選択肢は与えられない。まだこんなに小さくてふにゃふにゃの娘を、きっと別れ際泣いてる娘を、先生に預けバイバイと振り切って離れなくてはならないんだ。寂しさと不安と、乗るかの乗らないか迷っていたベルトコンベアーがたまたま体重をかけたタイミングで動き出してもう降りられない絶望のような気持ちで毎日を過ごしていた。


入園の準備、職場との調整、自分の復職の準備…、あっという間に年度初めはやってきて「もうすぐ1歳のうちの子」は「ゼロ歳クラスの保育園児」(保育園は年度初めの年齢でクラスが決まるから、4月2日の時点でゼロ歳の子は、たとえ4月3日に1歳になるとしてもゼロ歳クラスへ入る)になった。
人との関わりといったら、私とたまに私の友達と、夜だけ夫と、程度の人間関係だったもうすぐ1歳の娘は、突然5人のクラスメイトとたくさんのおにいさんおねえさんと、2人の担任の先生、朝の先生、午後の先生、夕方の先生…とたくさんの人と関わることになった。
いろんな考えがあると思うけれど、私はよかったなと思っている。たくさんの人の中で、たくさんの人の目に触れて守られて、たくさんの子どもたちの中で娘は育ってきた。家で私とだけ過ごしていたら経験できないことをたくさん経験させてもらってきた。季節の行事やそれにまつわる歌やお話し、制作、給食…私一人では何にもしてあげられなかっただろう。

経験して初めて知ったことだけど、ゼロ歳~2歳クラスまでは本当に細かくこどもの毎日を記録して保育園と情報を共有する。コロナの波にのまれる前だったけど、朝晩検温して体温を記録することは当たり前、食べたもの・時間、排せつの回数、入浴の様子、睡眠時間、全部毎日記録して連絡ノートに記載してこどもと一緒に保育園の先生に託す。日替わりでたくさんの先生が日中のこどもについて連絡帳に記載してくれるので、こどもを見守る目の多さを実感する。
たくさんの保育園の先生が、娘のベースとなる部分に水をやり、耕し、根を張れる環境を作り、自分の意思を持って自分の足で立ちあがり歩き出す姿を信頼と安心で包んで見守りながら育ててくれた。親子の距離ではない目で、ずっと見ていてくれた。日中離れて過ごすことに寂しさは感じたけど、娘をかわいそうだと思ったことは一度もなかった。

今は在宅勤務が定着してきて、週5日出勤していた、雪でも台風でも出社しか選択肢がなかった頃とはだいぶ毎日の過ごし方も送り迎えの負担も帰宅後の忙しなさの度合いも変わってきた。
子どもがもっと小さい頃からこうだったらねぇと職場の同僚と話すけど、あれはあれで経験してよかったなと思う。部活に打ち込む学生のような、雨でも雪でもこどもを保育園に連れていき仕事をしてまたピックアップして帰宅する、そうするしかないと割り切って必死にやるしかなかった期間限定の毎日。
あの時急に動き出したベルトコンベアーで運ばれた先には、欲しいと思ってすぐ手に入るものではない経験がたくさんあった。思い切って乗って、よかったんだ。


保育園にもすっかり慣れておともだちと楽しく過ごせるようになった頃には迎えに行っても、ママお迎え早いよまだ遊ぶー、とおよそドラマチックとは程遠い再会に疲労が倍増したり、下の子が生まれて早お迎え(娘が通っていた保育園では下の子の育休中、上の子の保育は16時お迎えと時間が決められていた)の時期があったり、下の子が同じ保育園に入れず2か所の保育園の送迎はしごをしたり、ケガやアクシデントも含めて本当にいろんなことがあった。
ここまで大変な思いをして仕事を続けることがプラスなのかと悩んだこと、毎夜半分眠りながら翌日分のおむつに名前を書いたこと、帰り道なかなか思うように歩いてくれない娘に「勝手にしなさい!」怒鳴って手を放し置いて歩いてしまったこと(すぐに回収に行きました)、帰宅後の怒涛の時間にふとスイッチが切れて、空腹の娘と一緒にわあわあ泣いたことだって一度や二度ではなかった。
それでも思い出すのは、行き帰りの道で毎日繋いだ柔らかい手と、迎えに行った私を見つけて笑顔でとたとたと走ってくる姿と、すっかり大きくなって自分の足でしっかりと立つ卒園式の立派な後ろ姿だ。

まもなく下の子の卒園式で大きくなったその後ろ姿を見ることになる。下の子の勇姿を一緒に見守る大きくなった娘(とパパ)の隣で、私は「保育園児のおかあさん」卒業する。
この先もいろんなことがやってきて、その都度こどもたちも自分も、悩んで苦しんで理解できなくて八つ当たりしてよそを羨ましく思って、そんなことを繰り返していくのだろう。どんな過去より「今」に頭を占領されるだろう。そんな時、この10年の、大変だったけどこどもと手を繋いでなんとかやってきたこの時間があることが杭になる、かな?そうだといいな。
上の子は学校の教室で、下の子は年長クラスの教室で、それぞれの場所でそれぞれ私には見えない姿で今も過ごしていることに逞しさを感じてなんだか嬉しくなる。筋力とバランス感覚を身につけて自分の足で進んでいくこどもたち。転んでも止まっても。そうなる前に繋いだ手で引っ張り上げてあげられた時間はもうそろそろおしまいだ、そうできないことを歯痒くも思ってしまうけど。
次10年経った時、ここからの10年をどう振り替えるだろう。
私はきっとその時も、万歳をするように腕をあげ手を繋いでいた小さいこどもたちの姿を、昨日のことみたい、と思ってしまうのだろう。


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