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忘れてしまっても確かにあった時間「君が夏を走らせる」

本屋での偶然の出会い。
こどものドリルや学習書が並ぶエリアに、読書感想文用だったか中学受験に出題されましただったか忘れてしまったけれど、文庫本がいくつか陳列された棚があった。その中に鮮やかな黄色の背景とおにぎりを手に持ち大きな口を開けるこどもの姿が描かれた、絵本のような表紙のその一冊は置かれていた。

瀬尾まい子さんの「君が夏を走らせる」。
小学生も高学年になるともう大人と同じ本を読むんだったっけ、うちの子ももうすぐ読めたりするのかな、などと考えながら手に取りレジに向かう。裏表紙のあらすじには以下のように書かれていた。

ろくに高校に行かず、かといって夢中になれるものなく日々をやりすごしていた太田のもとに、ある日先輩から一本の電話が入った。
聞けば一か月ほど、一歳の娘鈴香の子守をしてくれないかという。
断り切れず引き受けたが、泣き止まない、ごはんを食べない、小さな鈴香に振り回される金髪少年はやがて――。
きっと忘れないよ、ありがとう。二度と戻らぬ記憶に温かい涙あふれるひと夏の奮闘記。

これだけでうっかり涙が出てしまいそうになる。年を重ねると涙もろくなって困る。家族に、人に、寄り添うしかない側にいる人のさりげない諦めとまっすぐな愛情が、本を開く前から見える気がした。


太田は金髪にピアスの高校生。小さくて柔らかくて生きる力しか持ち合わせていない潔い命に関わる経験も、それに対する興味もなかった。それでも、1歳10か月の鈴香と過ごしていく21日間で太田はすっかり鈴香の保護者に、太田にとって鈴香は「世話をしなければならない存在」から、「うれしそうな顔を見るために不安や寂しさを減らすために、自分の体が勝手に動いてしまう存在」になっていった。
その変化の過程での太田少年の生き生きとした様子といったら!血の繋がりは関係なくて、愛情を注ぐ相手がいるということそのものが充実であり幸せであり生きる原動力なんだ。本当に他の誰にも頼む当てがなくて太田に鈴香のお世話を頼んだのかもしれないけれど、中武先輩も先輩の奥さんのさつきも、太田がもっていた注ぐ先を探している宙ぶらりんの愛を見抜いて感じていた、のだろうか。

太田が鈴香と過ごす時間の中で唯一、鈴香のためではなく自分自身を優先した場面があったのだけれど、そこでの鈴香はちゃんとわかっていた。
本当にこどもってすごい。自分がしてもらったことを覚えていて、相手がどんな思いでいるのかお見通しで、その時何をしたらいいかちゃんと感じてる。シンプルな思いだけで表されるこどもの行動が相手の心を動かす力は計り知れない。知識や経験では核心は突けない、そうできるのはその元にある思いだけなんだ、と改めて思う。

鈴香の描写は、その年頃のこどもと時間を過ごしたことのある人だったらみんなそうそうそう!あるあるある!と頷きながら読み進めるような、こどもへのあたたかい眼差しを感じるものだった。
新しいものを見た時の目の輝かせよう、こどもの相手をしていると自分の感情まで単純になっていくような気がすること、こどもが泣かないだけで気持ちがすごく楽になること、だっこは共同作業だと思うこと、指先にひっかかるものなど一つもない滑らかな肌、子どもと一緒でない時間小さな温かい手を握らない自由になりすぎる手を持て余してしまうこと、「おいで」と腕を広げるとまっすぐに走ってくる姿。
そうそうそう!のポイントのページの角を折って読み進める。こどもが小さかった時のことを思い出し、鈴香の姿を想像し、まるくあたたかい気持ちになる。なんども繰り返し開き読み返す。

作品に登場するこどものためにと明確な意志を持って作られる食べものはどれも丁寧で細やかで美味しそうなものばかり。太田少年は料理上手、こんなに相手を思って料理が出来る16歳男子うちにも来てほしいと思う位だ。
ありあわせのもので作るチャーハン、野菜も肉も豆腐も入ったあんかけ、苦手なものをこっそり混ぜ込んだふわふわのハンバーグ、一緒につくるたくさんのちいさなおにぎり。
あたたかくおいしい食べもののまわりにはどうしたって幸せが漂う。そして二人で食べるごはんにはどこか共犯意識みたいなものを感じてしまう。生きている間幾度となくくりかえされる「ごはん」のうち、限られた何回かを共にする甘やかさ、その幸せを思いながら二人の食卓の様子を想像する。

太田の周りの人たちは、彼の思いと行動とその矛先のズレを絶妙な距離で見守るポイントに立っている。手を差し伸べるのとは少し異なる温度で立っている。お母さんも中武先輩も上原先生も。
先を読む、お節介を焼く、認める、思い出させる、違うことは違うと言う。小さき命を守る太田もまたより長く生きている人たちに守られている。守る対象が増えていく(物語の中ですでに広がりを見せていた)この先も、きっとずっと変わらず続いていくのだろう。その温かさに胸をぎゅっと掴まれる。

記憶に残ることはないかもしれないけど、血肉となり共に生きていく。幼いころの経験はその人を作る根っこになる。
ふたりで過ごした時間、ふたりで食べたごはん、ふたりの間でしかわかりえない言葉、「跡形もなく消えていく」なんて、そんなことないよ。寂しさを振り切り一歩踏み出す太田少年の肩を、彼より長く生きている者としてポンと叩く。


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