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2021年3月3日 映画「ステージ・マザー」

上映予定の映画の情報を見て、その映画を観たいと思うきっかけってなんなんだろう。
好きな俳優さんが出演しているから、好きな映画の製作に携わっていた方が創った作品だから、予告や宣伝から温度や空気やビジュアルがいいな合うなと感じたから。
いろんなきっかけを感じて観たいリストに登録されるけれど、映画に描かれている世界と自分の生きている世界のどこかに接点や共感があったり、描かれている世界に理想を見出したり知りたい気持ちをくすぐられたり、自分のセンサーが反応するなにかしらの縁を感じているのだろうなと思う。

ステージ・マザーの作品詳細の情報を見た時の一番大きな印象は「突然の息子の訃報…」というようなコピーがあったのに、全く湿っぽさを感じないこと。車から放り出した手を風にあずけ晴れやかに微笑む女性、そのメインビジュアルから事態がプラスに転がっていく爽快な空気が伝わってくる。

家族の死、ママとして、ドラァグクイーン。そんな要素に自分のセンターが反応して、多くの映画館で公開される映画ではなさそうだけど、これはと公開のスケジュールを手帳に写していた。

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自分のことより他の何より、大切に出来るものがある人の強さ、広さ、そんな大きな揺るぎなさを感じる映画だった。愛あふれる人の姿もそのあふれる愛を与えられる人の姿も、いいなぁ。やっぱり世界は愛とリスペクトなんだ、と恥ずかしげもなくでも改めて思うような。

大事に思うものが共通する人たちは「同志」で、表面的ではないところで繋がることができる。
メイベリンのあの発想と行動力とさりげないおせっかいと周りを巻き込む引力は「超保守的な田舎町の主婦」でいる時発揮する場がなかっただけで、本来彼女が持ち合わせていたもの。そしてそれはしっかりリッキーに引き継がれていて、リッキーを愛する人たちには言葉にせずともそれがきっと伝わっていた。
メイベリンの分け隔てなく注がれるやさしさやちょっとのことでは動じない懐の深さ、若く刺激的な友人に劣らないユーモアに救われながら、リッキーとリッキーの愛した世界を大切に守ろうとする「同志」の思いが同じ方向に向かう過程は、あたたかくて清々しい。埋まらない悲しさはこうやってかさぶたになっていくのが理想なんだろうなと思いながら、私もマッチョなバーテンダーがいるパンドラ・ボックスのカウンターの影に隠れてその過程をこっそり見守っている気持ちになっていた。

愛する人、大事に思う人、その人たちにできることは、ただその人を映すこと。
その人の輝きをそのまま受け止め映すこと。
そうありたい、と強く強く思う。

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昨年あたりからマジョリティではないとされる世界が描かれた作品に触れる機会が多いように思う。そういう作品が増えたのか、好んでそれを選んでいるのか、その両方なのか。
心のうちに持ったその人だけのものを、持て余して諦めて隠して絶望して、やっかいででも捨てられなくて、そうやって生きていく姿に支えられている。そういうのずっと持っていてもきっと大丈夫、なんとかやっていけるもんだよと言ってもらっているように思う。
人の苦しさに支えてもらうなんて、苦しさを利用するようでどうかしてる、そんなふうに思うことはよくないのかもと思うのだけれど、どう考えてもそういうことのよう。

私の想像を遥かに超える苦しさを抱える人たちに私ができることは何にもない。苦しさを取り除くことはできない。ただ、その人はその人そのままでよくて、同じ世界を生きてるという事実をそのまままっすぐに受け止めるだけ。その人の目線の位置と高さとそこから見える景色を想像し続ける、いつでもずっと。

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誰もが正解の札を下げて生きている訳じゃない(たまにそういう振る舞いの人に出くわすと、全速力で逃げたくなる。その正解の札の真偽の程だって定かじゃない)のに、正解の札を下げてないことが許されないような空気に重苦しさを感じるなら、きっとこの映画の軽やかさは心地いいんじゃないかと思う。

いいなと思うことをいいなと思って、そうじゃないものはそういう世界もあるもんなんだなと眺めて、自分の目と手の届く範囲に分け隔てのない愛を、ジョウロで草花に水をやるように注いでいく、そんなふうに歳を重ねていきたいなと、さわやかと言うには強すぎる風に吹かれながら思う帰り道。
ありきたりだって、巧妙な仕掛けなんかなくたって、愛は勝つそれだけだって、あたたかい気持ちで席を立てる映画ってやっぱりいいよねと思う帰り道だった。


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