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2020年11月14日 17回目の土曜日

月曜夜に観たRENTと、その時の一席おきではなく観客が入った劇場の熱の余韻に包まれ、ふわふわしながら過ごしたこの一週間。

生の演奏、生の台詞、生の歌。
それを受けて自分が今どんな気持ちなのか認識できる前に勝手に涙が溢れる。
舞台を観に行くと自分に起こる自分でもなぜなのかわからない身体の反応に、現実なのか夢なのかなんなのか、その境目が曖昧になってしまう。


歌声の持つ怖いくらいの力。
永遠ではない刹那、その時だけの、その人だけの。
何も楽器がなくても誰でも節をつけた音を出すことはできるけど、聴く人の気持ちを動かす力を持った歌を歌うということの尊さを思う。
形なんてなくて、目にも見えなくて、同じものを生み出すことができなくて、それでもこんなに人の心を揺さぶる力。ため息が出てしまう。

春馬くんの歌にも嬉しいニュースがあった。
すごいね、よかったねぇ、自分がこの先もっと積み上げて高めていきたいと努力していたことが評価される、こんなに嬉しいことはないね。
発売後の作品に対する賞賛も、今回の歓喜も、たくさんの人のたくさんの思い、届いているかな。

引き続き斜めに流し読みしているSNSだけど、久しぶりに嬉しい出会いが。これまでに読んだことのない春馬くんに関する2つの文章を読んだ。

一つは、春馬くんを評した銀魂Ⅱ公開の頃の記事。誰の言葉なのか確認ができなかったけれど、映画の関係者の方なのだろうなと想像しながら読んだ。

最高のエンジンとボディを整備したレーシングカーのような威力
・・・
笑顔が優しく少年の心を失わない好青年という印象がある彼が、役によっては時々物凄く獰猛な瞳をしていた
そのちょっと飢えたような瞳が色気に転じて女性を魅了する

神様から与えられたものと、それをどうやって輝かせるか考え努力しそれをし続ける姿勢と、形のないものを見える表現にするためのツールとしての肉体と、そうして創り上げたものと世が求めているものがぴたりと合うことと。
そう、本当にピカピカだ、心も身体も磨き上げて整備して。俳優としての春馬くんはやっぱり奇跡なんだと改めて思う。

もう一つは、松尾スズキさんのメルマガの文章。
そこには、春馬くんのテクニックに対する賞賛と、もういないことへの喪失感、そして、最後に

どれだけ苦しんだら、こういうことになる?

という一文があった。

同じ世界に生き、春馬くんの俳優としての力を讃え認め、その未来に(春馬くん個人はもとより彼がいる表現の世界そのものに)強くて甘美な光を感じていただろうことが窺える方の言葉、その重さにまた胸の奥が掴まれて苦しくなる。
肯定も否定もしない。
ただ、「これまで」と、訪れることを信じて疑わなかった「これから」が繋がらない、その事実に憤る。
近過ぎず、でも、春馬くんがいた場所やそこで感じるものがどんなものかきっと具体的に思い描ける人だからこその受け止め方。
あるべき未来が絶たれた、自然ではないその流れにはやっぱり春馬くんの表しようのない苦しみがあったんだ。必死に見ないふりをしてきたけど、やっぱりそうなんだよなと、いやな気分ではなく、そう思わされた。

自粛期間にInstagramのストーリーズにたくさんあげてくれていた、「三浦家日本製棚より今日の一品」。奈良県山本瓦工業の鯱を紹介する春馬くんが今にも泣いてしまいそうだったのがずっと気にかかっている。
訪ねたのは2016年のキンキーブーツの大阪公演の後だったと+act.の日本製振り返りトークで語っていた。研鑽を重ね高い技術を継承してきた職人さん達のパワーに共鳴する様子、コメントからも写真からもその当時の春馬くんの充実ぶりが窺える。
そんな輝かしいタイミングで自分の手元に来た鯱、それに魂を込めてくれた人がもういない現実、各地で繋がりを持った尊い「日本製」を持つたくさんの人が苦しんでいる状況、そして、春馬くんが俳優三浦春馬であり続ける場を取り上げられて突然放り出された空白。
そんな重なりが、あの表情となって表れていたのかな。そんなに悲しい顔しないでよ、そんなに全部引き受けなくていいんだよ、勝手にまたそんなふうに思ってしまう。

少しずつ、整頓していく。何か本当かわからないけど、憶測やこじつけは排除して数は少なくても信頼できると思えた情報を芯に、少しずつ。
毎週おんなじことを思っているけど、行って戻って繰り返しているけど、その温度は少しずつ変化していると信じて、少しずつ。
あれから17回目の、青空の土曜日。

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