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<伊勢滞在記>小林 和史(Kazushi Kobayashi)

1はじめに…

「伊勢神宮という処はご縁も無くおいそれと訪れてはならない…」と一体、いつ・誰が言ったのかは不明なんですが、遠く離れ代々東京都内で生まれ育った自分にとっては、なぜかそれを漠然と 鵜呑みにしていたんです。

その伊勢に遂にご縁を貰ったのが、2017年でしたか、翌年1月から外宮前で開催する私、小林和史の個展のリサーチでした。

2018年に外宮前で開催した個展ポスター 作品(氷結) 一枚の紙から切り出す昆虫と生命…この氷結したトンボ像は幼年期の衝撃体験を再現

その際に自分を招待頂いたギャラリーのオーナーから外宮、内宮、主な別宮摂社末社を案内して頂きました。その移動中にはこの地方の富んだ自然環境や食文化も含めて身近に体感する事が出来ました。目にするモノ・コト、あらゆる存在が何故か腑に落ちてしまって、「一体その感触の出所は何なのか?」と大変興味を持った次第です。その問いかけが自分の伊勢、神宮との繋がりとなりました。

現在自分は総じて"美術家"という肩書きで立ち回っておりますが、ある時はパリコレクションのファッションデザイナーの時期もあり、舞台や映画、CM、商業施設のアートディレクターでもあったりと移り変わる世の中の時流の中で、様々なジャンルの速度の違った業界を行き来しておりました。
そんな回転の速い業界に居ながら、自分の背負った美術家としてのギャップをどの様に処理しようかという半生だった気も致します。

伊勢、神宮の在り方を知れば知るほどに自分の存在や社会との繋がり、モノづくりの在り方を改めて本質的に見直し始めました。自分が産まれながらにしての体質、持ち得ていた言葉には当て嵌まらない衝動というのでしょうか…神宮の悠久の営みを通じてですね、自分の中のカオスの性質、或いは才能を許容されたような気持ちになった事を今も鮮やかに思い出します。

総じてそれらは、「自然体であれ」…という感覚でもあり、終わりなき自然の "循環" という事象を見せられたからだと思います。

凡ゆるものは繋がって連動している…目には視えないところにこそ根本や本質があり、発見のヒントがある…伊勢和紙を使い"循環"をテーマとした作品


デザインもアートも凡ゆるモノづくりは、人と自然の循環行為の途上にあって、自然環境を巻き込んで営まれているんですね。目先の得からその域から離脱してしまえば、短命となる…例えば神宮内で執り行われてます様々な行事はその実践的かつ無駄なく自立している…結果として持続性があるのです。

20年毎の式年遷宮は本質的な自然と "住" のわかり易い実践であり、自然環境と人の暮らしとの精神的な時間軸合わせではないか…とも感じました。

"衣"…の実践としても絹や大麻を栽培し反を織るコトの中に様々な知恵が潜んでおります。

"食" …何よりも毎日朝夕、無から火を起こし自作の米を炊き地域環境全体を巻き込んで育まれた地産地消の食材を用い食事を作り、それらを神様に捧げるという、弛まなく繰り返される祈りの行為です。


それが1500年以上もの間、休みなく毎日継続されている…恐らくは関ヶ原の合戦 があろうとも 太平洋戦争 が勃発しようが止むことなく執り行われて来たんだと思います。この不確実な現代にあってそんな存在がこの国にも残されていたコトは正に奇跡だと思うのは自分だけでしょうか…すると不確実な未来にも意識が向きまして過去から未来へと時間が繋がります。それは自分にとっては"希望であり救い"でもありました。自分などデザインやアートに携わる人間にとってはリアルな問題でして、行き着く先に観るであろうシンプルな指針だとも思えたのです。

今回ワーケーションのチャンスを頂きまして、この伊勢という土地、環境を見極めて更なる"循環" を発見し実感する旅に出ようと思います。僕は考古学者でも地質学者でもありませんので、このnoteは実証するモノではなく、あくまでもクリエイターとして実際に体感し直感したモノですので、非常識な箇所もあるかと思われます。どうぞ、意識 のレポートとして許容頂ければ幸いです。

さて"伊勢の本質的な循環性"を知るには神宮神社を拠点とした自然環境全体を知るコトだとも思いました。それら多くのポイントには、何故か常に"倭姫命"が来訪したという言伝えが残っております。まぁ、御造りになられた張本人、または御一行ですから当たり前かもしれません。しかしながらその根本的な理由とは何なのでしょうか。

今回は河川、つまり"水"の流れの存在から、かつて倭姫命がこの地に神宮を創設した本音を探り出せないかと思った次第です。

発見旅のキーポイントは、「水」「海と山」それらを繋ぐ「河川」そして「倭姫命」となります。


2さて発見旅の始まりです

始めに設定いただいた宿泊地は海沿いの 二見浦 です。ご存知、海上に夫婦岩を望む 二見輿玉神社 の鎮座地です。

宿の若女将のお誘いをうけまして早朝、日の出の参拝ツアーに参加しました。宿泊客の方々を引き連れて浜に出て裸足になりました。先ずは 海水での "禊ぎ" の 体験です。昔の伊勢詣はこの浜で浮世の垢を落としてから内陸にある外宮から内宮へと向かったと云います。

この日はまだ冬場の割には海水は温かかったですが、寒さと冷たさに身を晒すほどに昇る朝陽の温もりを有り難く感じた事でしょう。太陽その化身は天照大神でありますので誰でも自然と手を合わす気持ちとなりますね。


3 新嘗祭

外宮・内宮 の参拝レポートは敢えてここでは割愛致しますが、来る度に思う事があります。

何年ぶりかに訪れたとして、一見、見た目の風景は何も変化していない…いや、その様でも何かが変化している…その些細な違いに意識が向きますと日々全く違う日常世界の中に自分が居るコトに気がつくんですよね。自然は止まることなく常に移ろって居る訳でして、それは人間も同じだというコトです。社会のなかで忙しく振り回されてますと、そんな当たり前なコトも見逃していたんだと反省もさせられます。

自分のワーケーション期間内、唯一の神宮内行事が 11月23日に執り行われる秋の収穫を祝う "新嘗祭"です。


日の出前から外宮に待機し間近で一部始終を拝見しました。あいにくの小雨模様でしたが、それゆえに神官たちの傘の華模様も芳しく映り、紅一点、祭主 黒田清子さまの華麗な所作お姿に感銘をうけました。オレンジの木靴が可愛いですよね、今見ても初々しくモダンで、平安時代もこの様な風景が繰り広げられていたのか…そう思うと時空間を旅している気分に浸れました。表現が適切かは判りませんが、今でいう"萌える"とはこう言った感覚なのかも知れません。

4 倭姫命 上陸の場所 磯神社(宮川最下流)

伊勢も熊野も険しい山々に閉ざされていた地でした。今の様にトンネルやバイパスなんてないですからね。昔は海路、河川路の船旅が有効な交通手段だったのでしょう。

伊勢の大河、宮川の存在。その重要性は神宮の生い立ちを知る上でも必須、無視できないと思います。何故なら生きとし生けるものは豊富な水なしでは生きられないからです。

先ずは最下流にある "磯神社" 磯宮を訪れました。起源は倭姫命が巡幸の際に泊まった宮だったとされています。倭姫命が天照大神を祀る地を探して大河、宮川を交通路としてリサーチの旅をした事は点在する神社にも痕跡があります。


倭姫命 上陸の場所 「こんな河原に?」その時代、今よりも海面が2メートル近くも高かったと言う説もある。磯神社ももっと海辺だったのかも知れない

式年遷宮の際には社殿再建の為に船積みされた樹木を此処で荷下ろし、綱をかけて陸路で神宮までの距離を人力で 御木曳き して行きます。この地域の住民総出で行列を組んで行くという神宮行事であります。その重要な儀式を司って来たのが此処、磯神社であります。

前回の式年遷宮の際の模様は磯神社宮司宅にお邪魔して写真資料などを拝見し貴重なお話を伺いました*

5 宮川 (上流域)

倭姫命が宮川流域をリサーチして巡ったとして、時空を超越し同じ感覚にならないと"伊勢の生い立ちや循環" など解る筈もないと思いたちまして、車で行ける範囲で宮川河口から上流域まで川沿いを旅する事にしました*

川幅も広くゆったりとした河口域の流れも上流に行く程に谷間の渓流となり、さらに深い渓谷となって行きます。

宮川上流域

これ程の東西横方向の長い断層は日本列島を関東から九州までを訳1000キロに渡って横断している中央構造体の現れかも知れません。宮川は全長90Kmもある長い河なんですね。上流に行く程に川幅は狭く流れも早くなります。

更に進むと奥深い山間となり、そこにはひっそりと小さな "多岐原神社(内宮摂社)" があります。


こんな自然に埋もれそうな場所ですが、此処にも倭姫命の有名な逸話が残っております…荒れた宮川を渡れず困っていた倭姫命を地元の青年、真奈胡神(まなこのかみ)が渡してくれて、その感謝の意の標がこの多岐原神社の起りという事です。2人は近くの祝詞山に登頂し眼下に望む美しい場所に かの"瀧原宮"を置くことを決めたたと伝えられております。

この "瀧原宮" は言うまでもなく内宮の別宮として有名で、伊勢中心地からは一寸離れてますが皆さん訪れますよね。何でこんな内宮と離れた場所に建っているのか?と瀧原宮だけ訪れても理解出来ませんでしたが、実はドローンのような視覚的な視点から繋がっていたんですね。ひと山越えればもう宮川の流域なんですが、瀧原宮に居るだけではその距離感は埋まらないのです。

同じ音の多岐原神社は倭姫命の巡幸時とひとつに繋がっていたと言う訳です。

宮川はこの先さらに深い渓谷となり宮川ダムとなります。車一台ギリギリの幅の吊橋は修復中というコトでしたが渡れてしまいました。車で行けたのはその先まででして、そこからは山道、日の出ケ岳、大台ヶ原は仙人の秘境で宮川はこの付近で出流るそうです。

大杉神社 宮川上流域から険しい山岳地帯、自然信仰残る流域。さらに奥、尾根の先には奈良、大和国に通じる

倭姫命が大和国(奈良)を出て近江国、或いは伊賀国、美濃国を経て海路で宮川下流域に着いて舟でここまで来たのか?或いは大和国から路なき険しい山岳を辿って宮川に辿り着いたのか?自分には判らないですが、どちらにせよ多岐原神社までは来たわけでして当然、水質が清らかで水量も豊富な宮川流域を重要視していた事を自分も実際に実感する事ができました*

6 五十鈴川河口

内宮を潤す渓流、五十鈴川も伊勢市街を抜けて海に注ぐ短い旅路の間に急激に広さを増します。河口は穏やかな流れの湿地帯で穏やかなながらも何処か殺伐とした様相です。神宮背後の神路山その上から流れ出たミネラル豊富な流れは海水と混じり合います。

五十鈴川河口 二見浦

この海岸海域ではこの良質な海水から旨味の豊富な塩が採れます。その事を倭姫命が見逃す筈もなく 浜辺の砂地に "御塩殿神社" を置きます。此処で神宮に奉納する堅塩を今尚 炊き続けております。


御塩殿神社・御塩焼所

地球の生命体にとっては健全な"水と塩"の交換なしには生存出来ないのです。それは陸上全ての生命体は元々は海から上がった末裔たちで、その生体循環摂理は変化して居ないという事でしょうか。或いはそのコトを倭姫命は熟知していたのかも知れません。

7五十鈴川 の上流域 

五十鈴川・内宮

 内宮・宇治橋の下を潤す五十鈴川の源流はその背後に聳える神路山、前山、鷲領は剣峠の方向に向かっております。ただし県道12号は道幅が狭く小さな車以外は通行出来ない一寸危険な山道です。

この時期秋は落ち葉が水に濡れますとスリップ、谷底に滑落しますので要注意で結構怖かったです。

五十鈴川上流

山林は神宮が管理していて植生も均一に安定しております。高麗広の山村に入る辺りには道すがら金明水という湧水場があります。近くに銀明水もあるとか。この水の味を倭姫命も味わったに違いありません。雑味を全く感じない磨かれた宇治の名水です。自分ならば、この美味なる水質だけでもですね、自宅を建てる動機となりそうですが。


金明水

清らかな五十鈴川のせせらぎを左下に聴きながら曲がりくねった山路を進みますが頂を前にして、急に聴こえなくなります。五十鈴川のせせらぎは路の下をくぐり抜け右斜面を駆け上がり消えておりました。この地点が一般的に確認可能な五十鈴川の出水地点です。

路上から見る五十鈴川の出水地点


8剣峠(つるぎとうげ)

五十鈴川の源流域の鷲領は剣峠で終わります。

此処の頂上に登って行くと其処は古代人の聖地である事が直感的に理解出来ました。山頂で南北がぶつかり合う断層から剣の様に迫り上がった岩石が剥き出しになっています。北側と南斜面では性質の違う力がせめぎ合い物凄いエネルギーを感じます。しかも頂上ですからね、大体聖地とはこんな感じの場所だと思います。その地殻変動活は今尚続いているわけです。

剣峠
剣峠から見る熊野灘

此処からの景観は素晴らしく、南は大海・熊野灘が一望できます。入り組んだリアス式海岸の多様性ある海域を実感致します。反対側は今登って来た神宮の杜と伊勢・神宮の地ですが、今は木々で見えません。南海の海産物を神宮の地に持ち込む最短の路は当時、此処だったんじゃないでしょうか…

倭姫命はこの頂上からドローンのような視点で清らかな五十鈴川下る麓に 内宮 を置く事を決めたのではないだろうかとも感じます。

峠を境にやはり地質が変わるのか、植生も南国特有の雰囲気となります。剣峠の下は最早、南伊勢の地なのです。


9島路川(島路山)

剣峠の尾根に続いて南東には島路山が隣接していてそこから出る清らかな島路川は現在の伊勢道と並行して内宮へと流れ込んでおります。

尾根の反対側には天の岩戸神社があり日本百名水の素晴らしい湧水が出る。その下には神路ダムがあります。

天の岩戸神社
渾々と湧き出る名水


9朝熊川(朝熊山あさまやま)

島路山の尾根を接して南海を見下ろす "朝熊山" に続きます。

朝熊山から見下ろす伊勢・志摩全景
朝熊金剛證寺


宮川ライン、五十鈴川ライン、島路川ラインに続いて最も南側にあるのが朝熊山です。頂上には朝熊岳金剛證寺が鎮座しております。此処は伊勢市や神宮の鬼門を封じていると言われており、神宮詣りと並行して参拝されて来た様です。

此処からの景観は伊勢、志摩、宮川流域から熊野灘 恐らく熊野地方まで見渡せる今で言えば情報ハイパー集積地であったろうかと察します。

金剛證寺は山頂でも漁師民の信仰が厚いのです。それは半島地方の山岳には共通していることで、海の豊漁は山の生態と繋がって居るコトを経験から言い伝えられてきたんだと思います。

朝熊山見下ろす先にある、国崎/くざき岬は昔から海に潜る海女たちが鮑を取り それを神宮に献上して来ました。"海士海女神社" は岬の漁村にある密かな神社ですが、近代の日本人にとっても重要な場所でありました。地元海女と倭姫命の逸話も残っている。

海士海女神社
倭姫命も厚く信仰されている


10安乗

あのり岬もまた海女たちが住む漁村で天然フグが採れる名産地でした。食べましたが、肉質の弾力が際立ち、良い出汁の出る素晴らしい味わいでした*

地元"安乗神社" は漁民たちが賄う漁民のための神社でした。

安乗灯台のある岬の突先は素晴らしい芝生のフィールドで内海と外海の砕ける波音が左右から聴こえてくるような世界にアピール出来る環境を感じました。

安乗神社
内海と外海が一望できる灯台岬

幸運なコトに地元若者による、初めての音楽フェスに参加する事が出来たんです♪現役の若い海女や海士の生の声、地元に伝来する人形浄瑠璃などの公演も拝見し、バザールでは地産地消の海の幸を様々な料理で味わう事が出来ました。天国とはこういう瞬間なのかも知れませんね。

安乗灯台岬 "あのリズム" フェスティバル♪

言うまでもなく、この豊富な海の幸を倭姫命は見逃す筈もないのです。

11石神神社

静かな湾の奥に「石神さん」と地元で慕われてる神社があります。此処も海女信仰が強くその為か女性崇拝の気運を招き、現代では何故か女性たちの恋愛成就の神さまとなっております。

ともすれば閉鎖がちになり得る地元信仰に女性というニュアンスが加わるコトは何処か不変的なエロスにも繋がり人間の本質性を軽く明るい方向に誘います。それは、伊勢・神宮を語る上で、倭姫命 という存在も大きな役割を担っていると思う次第です*

眼前の賢島ふきん穏やかなリアス式海岸は牡蠣や真珠貝の養殖が盛んであります。


石神さん・石神神社


12肥沃な中洲

ドローンの視点つまり、昔で云えば神の視点から伊勢、志摩地方を俯瞰してみますと、宮川 下流域と五十鈴川 下流域との間は肥沃な中洲である事が見て取れます。宮川の大きな水系は地下の岩盤では繋がっているのでしょうか。宮川水系の地脈の広さが伺えます。


肥沃な稲作地帯

それは稲作にも適した肥沃な土地なのでしょうか。絹を育む桑だって麻布を織る大麻だって綿だって安定して収穫可能だです。野菜、果物だって温暖な風土も手伝い良く育つのでしょう。

そしてこの霊山が育む山林資源です。木々もまた水の化身でもあります。御杣山/みそまやま とは神宮寺式年遷宮の際に用いるヒノキを調達する山のコトです。当初は内宮のある神路山がその御杣だったようですが、段々と枯渇して、江戸時代からは 木曽、美濃 が主な御杣山となってた様です。これらは "住" の実践でありますが、総じて"衣食住"の持続的な循環システムを何千年に渡って実証して来たのが神宮であり、伊勢の環境だったのでありましょうか。

絹地を織る…神服織機殿神社


"海 と 山 のあいだに 人 がいる" 清らかでミネラル豊富な水出るその山の麓には内宮があり、その下流域は宮川水系で海とのあいだに外宮が存在する。昔は内宮のように外宮にも流れがあったらしいが、その流れが途絶えて門前の勾玉池として残った。それであっても地下水は豊富に存在している。長い年月の中、地殻変動は必ず起こる訳でどの河川が途絶えても大丈夫な様な位置に神宮は存在しているらしい…倭姫命の巡幸には見識ある地質学者が同行したのだろうか…ともあれ今尚、神宮が存続出来ているのですから倭姫命の目論見は成功したと言って良いようです。

二千年経過しても尚、人間と自然が健全に活きるための "循環" は途絶えていない…つまり自然と人為の実践の場であり続けている…伊勢の地の歴史を知るコトは即ち、究極の都市計画を体感する場であり、地産地消のモノとヒトとの接点はデザインの行き着く先を予見しているようです。神社内での悠久の行事は持続可能な究極のライフスタイルだとも云えるのではないでしょうか。


さて風変わりな視点からのnoteとなってしまいましたが、伊勢の地の懐は深く結局は此方が気付いた分だけ門戸を開けてくれるんだと知りました。何事も意識、「主体性」あっての賜物というんでしょうか。

冒頭に話は戻りますが、「縁無くして伊勢は訪れてはならない」にも繋がるのかも知れませんね。"縁"とは、偶然出逢う様でも、後から振り向けばですね、自身の行動の延長にあるものだった…と気付くコトが多いのです。此処に呼ばれて来たようでも、長い間、無意識のうちに自分自身が望んでいたコトだった気が致します。

いま想えばですね、もっと早くさっさと伊勢に訪れれば良かったとも感じた次第です。


PS1 伊勢和紙 という存在感

"紙" という素材は自分のモノづくりの原点を成すモノです。自分が病いのリハビリテーションから始めた一枚の紙から鋏一本で切り出す虫。それを自ら始めたのが3歳の時でした。紙は自分のモノづくりにとって一番親和性のある素材となりました。

一枚の紙から切り出す"命"


昆虫の形態は"自然の化身" 神さまのカタチ

伊勢和紙を知ったのは10年ほど前でその柔らかな質感と反するハリが気に入りました。その製造元が大豐和紙工業さんで今回は初めて工場を見学させていただきました。

引き続き紙を使う美術家としての眼とアパレルやプロダクトのデザイナーとしての新たな素材開発からの視点からも大変可能性あるひとときとなりました。伊勢唯一の伊勢和紙は勿論、神宮内の様々なものに使用されてきました。


大豐和紙工業


PS2 麻、大麻という存在感

古来より麻は日本人の生活には欠くコトの出来ない素材でした。衣食住、そして健康においてもです。それは神宮内の祭事に於いても同様です。此処 麻福 商店はその麻、大麻文化を現代の実践的なプロダクトとしてデザインしているメーカーです。

麻福本店


小林 和史(Kobayashi Kazushi) 美術家/デザイナー

https://kazushikobayashi.com/

【滞在期間】2022年11月19日〜12月2日

※この記事は、「伊勢市クリエイターズ・ワーケーション」にご参加いただいたクリエイターご自身による伊勢滞在記です。
伊勢での滞在を終え、滞在記をお寄せいただき次第、順次https://note.com/ise_cw2020に記事として掲載していきます。(事務局)