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原始キリスト教とカッパドキア


 こんにちは、トルコ滞在中の高等遊民です。普段はイスタンブールのTaksimという治安の悪い繁華街の、スラムすれすれのAirbnbを拠点にボスポラス海峡沿いから旧市街にかけての行動範囲で活動していますが、先日イスタンブールを離れて内陸部のカッパドキアに訪れる機会があったので、見聞録を文字に起こそうと決意しました。忘れそうなので


カッパドキアとは

トルコの地図

 カッパドキアは中央アナトリアの歴史的地域を指す言葉で、上の地図中ではちょうど「トルコ」と書かれているあたりを指します。ネヴシェヒル県やカイセリ県が含まれ、県都であるカイセリやネヴシェヒルの他に、国立公園の広がるギョレメや地下都市を擁するカイマクルなどが含まれる広範な地域の総称です。

 イスタンブールでトルコ人から聞いた話では、トルコを訪れるほとんどの日本人観光客がカッパドキアを訪れるらしく、カッパドキアの気球フライトは日本人にとっても世界的に見ても人気のアクティビティのひとつです。ちなみに僕はトルコに来てからほとんど日本人を見かけていません。

 余談ですが、ギョレメ(カッパドキアの中心地)は空港からのアクセスが極めて悪く(というのも、ネヴシェヒル空港もカイセリ空港も変な位置にある)また先述の通りカッパドキアというのはひとつのまとまった街ではないことも相まって、観光をする際は1日にヘタをすると百キロ超えの移動を要求されることがあります。私はタクシーを利用しましたが、このあたりの道は信号機がないことや、タクシードライバーの運転がいい意味で荒かったこともあり、60kmでも30~40分くらいでついてしまうので時間的に困ったことはありませんでした。交通量はそこまで多くなく、道も直線的で単純なので、国際運転免許証をお持ちの方はレンタカーを借りた方がオーバーオールでの移動費は安くて済むと思います。

気球の上から撮りました


 カッパドキアは気球フライトが有名ですが、その理由としてギョレメ国立公園の奇岩地帯が挙げられます。地上から見ても十分キテレツな景色が広がっていますが、やはり上空からの眺めは格別です。キノコ岩とか意味不明な形をしていますし、なんかエアーズロックみたいな一枚岩の山のような何かもあります。(登ろうとしたけど誰もいなかったのと遠すぎて諦めました。)
カラフルな気球と奇岩地帯によって織り成される絶景を求めて全世界から観光客が訪れているのでしょう。そしてギョレメは変な岩があるだけの公園ではありません。この変な岩、よくみると穴ぼこが空いているのです。

奇岩に穴が空いている


 1000年以上前の人々はこの岩を削ってそこに居住し生活していたそうです。穴ぼこは地表だけではなく地中にも広がっており、カッパドキア内には150~200の地下都市が広がっているとされています。一般公開されているカイマルクやデリンクユの地下都市でさえ未だに未踏の領域があるとされており、実際私も訪れましたが、冒険好きの方なら非常にロマンを感じる場所だと思います。これらの都市は全て繋がっていたという説もあり、今後さらなる発見によって地下都市の謎が明かされるかもしれません。

 これらの要因からカッパドキアは単なる自然遺産ではなく、文化遺産の側面も持つ複合遺産に認定されています。旅行サイトによれば滞在目安は2~3日になっていますが、肌感では1泊2日でちょうど良かったです。(朝5時から24時過ぎまで動ける体力が必要なので参考にならないかもしれません)

 総括として、カッパドキアは文化的にも自然的にも素晴らしい世界有数の観光名所です。アクセスは悪いですが機会があれば絶対に行くことをお勧めします。


歴史・宗教的背景

 トルコはイスラーム圏に位置しており、10世紀のカラハン朝がイスラム教を受容したことから現在にわたってイスラム教徒が人口の98%を占めています。またそれに伴ってトルコには凄まじい数のモスクが存在します。アヤソフィアやブルーモスクなどは豪華絢爛で有名ですが、ネヴシェヒルの町外れにある観光客には無名のモスクでさえ非常に美しい内・外装をしており、トルコは世俗主義と言いますが、それでも宗教と生活の関わりが深いことが容易に推測されます。僕は人の多いところは苦手なので、タクシム広場を南西に行ったところの、観光地からは外れたあるこじんまりとしたモスクを気に入って訪れましたが、新市街の小さなモスクに観光客が(それも日本人が)来ることは非常に珍しいようで、モスクのセキュリティの方にご厚意でチャイをいただいたり、和訳されたコーランを貰いちゃっかり布教されました。昨今の中東情勢からイスラーム文化圏に対して"攻撃的"という勝手なステレオタイプを持っていたのですが、トルコ人の信者の方々(の大多数)は非常に温厚で、馴染みのない宗教文化に触れることができるので、無名のモスクへ入ってみるのもおすすめです。

 さて話を戻して、カッパドキアの歴史について紹介します。ここまで散々イスラームとトルコの関わりを紹介してきましたが、実はカッパドキアにある遺構はキリスト教、それも原初から初期キリスト教のものがメインとなっています。なぜイスラム教国家にキリスト教の歴史的建造物が残っているのでしょうか?

 遡ること3000年前、カッパドキアにはヒッタイトが住んでいました。彼らはカッパドキアに小国を建国しており、現在のカイセリ付近には重要な貿易都市があったようです。しかしヒッタイトの王朝はその後滅亡し、カッパドキアも暗黒期を迎えました。10世紀にはビザンチン人がカッパドキアを「世捨て人の地」と呼んだことから分かる通り、カッパドキアは古今東西から流れ者がたどり着く地と成り果てたのです。

 2世紀付近、原始キリスト教がカッパドキアにも入り込んできます。彼らはローマ帝国の支配から逃れてきた人々で、カッパドキアの柔らかい火山岩を削ることで地下都市や石窟教会群を形成しました。この遺構が現在まで残り、カッパドキアは原始~初期キリスト教を考古する上で重要な土地となったのでした。

 ただし、カッパドキアの遺構は必ずしも完全な状態で残されているわけではありません。事実この地域はセルジュークやビザンツ、オスマン帝国の支配を受けていくことになり、当時のブームであった偶像破壊の影響を受け、一部の岩窟教会は壊されてしまいました。今でも「暗闇の教会」のようにほとんど完璧な状態でフレスコ画が残されている場所もありますが、私がギョレメを歩いて見てきた岩窟教会の中には破壊されてしまってもはや判読することも叶わないようなフレスコの教会もありました。

 そんなカッパドキアのキリスト教ですが、迫害から逃れ隠れるように生活してきたこともあってか、他所では見られないような信仰があります。例えば聖バシリウスや聖バジル、ニサ、聖グレゴリーなどの存在です。

 カッパドキアでは古今東西から文化が流入してきたという経緯がありましたが、これによって様々な信仰がバラバラに入り混じっていたと推測されます。一説にはこれらの信仰は同一視されていたとも言われており、カッパドキア内には独自の体系をもった宗教観が存在しました。

 しかし、迫害を逃れてきたキリスト教徒たちはカッパドキアへの移住に際して、これら既存の宗教との対立を余儀なくされます。そこで信仰や儀式の基礎を築き、形式を確立させた事で、カッパドキアでは初期キリスト教が既存の宗教を押し出す形で根付くのでした。聖バシリウスは教えという形で、信仰を確立させたのです。

 また残された数々の遺構は当時の信仰を知る手掛かりとしてだけではなく、その暮らしを考古するという文脈で大変貴重な価値を生み出しています。

 総括すると、カッパドキアはヒッタイト以降、流浪の民の終着点としての役割があり、ローマから迫害されたキリシタンが移住したことによってカッパドキアでは生活と結びついた初期キリスト教が隆盛を極めました。その後は王朝の交代によって多くの石窟教会が破壊され、地下都市もその全容がわからなくなってしまったが、カッパドキアの地は単にトルコの歴史を振り返るだけでなく、宗教的な意味でも証左になりうる、文化的に重要な地だということです。

デリンクユの地下都市で


地下都市の写真

 カッパドキアの地下都市として有名なのはカイマルクですが、僕はそこから南方へさらに15kmほど進んだ意味にあるデリンクユの地下都市へいきました。ちなみにデリンクユとは「深い井戸」という意味の言葉です。

デリンクユ地下都市は世界最大の地下都市です。地下16階層までが発見されており、そのうちの8階までを見ることができます。世界遺産であることや、構造上人工物を設置できるエリアが限られていることから、エレベーターで下に行くというようなことはできないので、子供1人通れるくらいのサイズの階段を屈みながら進んでいくこととなります。僕は身長が180cmほどあるのですが、注意していないとそこかしこで頭をぶつけてしまいそうでした。フロア自体は広いところもあるのですが、通路は極めて狭いです。だいたい15€の入場料を払って中へ潜ることになりますが、その価値は十分にあるのでこの辺へ行く機会がある方はぜひ行ってみてください。(ただしご高齢の方や足の悪い方、暗所と閉所恐怖症の方はかなり厳しいと思います)

 さて、デリンクユですがここは初期キリスト教徒の隠れ家として機能していたそうで、まだまだ全貌はわかっていないものの最大で10万人が避難できるシェルターとしての役割があったといいます。実際下へ降りると重くて頑丈な石扉があり、SASUKEみたいな感じで押し込み閉めることで外敵の侵入を防いでいたそうです。私もこの扉に触ってみましたが非常にずっしりとしていました。

 また、この地下都市は換気設備も充実しており、中にはほとんど地上から地下8階までをつなぐような大掛かりな空洞も存在していました。これにより我々が地下へ潜っても窒息することはありません。ここでは水瓶の受け渡しやコミュニケーションが行われていたそうです。

 さて初期キリスト教の隠れ家ということなので教会はどこにあるのだろうと思いながら散策していたのですが、教会は我々が下ることを許されている最下層の8階に位置していました。

教会

 写真を見た限りでは、ここにはフレスコ画もなければ十字架もなく、一体どのあたりが教会なんだろうか❓と思いましたが、この部屋の形を上から見るとクロスになっていることに気がつきます。

 デリンクユの地下都市が発掘され一般に公開されたのは1965年前後ですから、それまでにはこの場所は人口に膾炙していなかったわけで、先の通り非常に優秀なシェルター機能を備えていたことから、過去この教会が破壊されたという線はなかなか考えられません。そのため初期キリスト教における信仰は現代のものよりもかなり質素であったのではないかという可能性を感じました。もちろん迫害を受けて隠れて暮らしていた彼らには教会を飾りつける余裕がなかっただけかもしれませんが、内部に残る文字や模様を見る限りでは、教会も切り込みを入れることで絵を描くくらいの装飾は可能だったのではないかと思われます。ここから私は、彼らが意図的に(必然的に)質素な教会を造ったのではないかと考えたのでした。

みずがめ

 地下都市には他にも様々な部屋がありました。例えば墓地や食糧庫、武器庫に酒造室などです。写真はワインを入れる水瓶ですが、この上部にある給水口からワインが流れてきていたと考えられます。この地下都市には結構な頻度で浅い湯船のようなスペースが存在しており、そこでぶどうを踏み、給水口でこしてから水瓶に保存していたのだと推測されます。

 この辺りの気候はステップ気候で、ひどく乾いています。空港付近にちょっとした川があるだけで、カッパドキアは水源に乏しい場所です。しかしブドウはひっきりなしに生えています。実はカッパドキアはワインの名産地だそうで、もちろん農園がたくさんあるのですが、国立公園のような個人の所有する土地ではないところにもブドウの低木が生えており、彼らがワインを水分としてみなすのも当然の成り行きだと腑に落ちました。ちなみに公園に生えているぶどうを一房とって齧ったのですが、非常に酸っぱくて美味しかったです。(アイゼンは多分好き)農園のものを取ると泥棒になってしまうので注意しましょう。

 地下都市に潜ってみた感想ですが、エキサイティングな体験であった一方で、どれくらいの年月をかけてこれを作り上げ、どこのようにここで生活したのかということは全くの謎であり、私の中では混乱が深まりました。人が住むにしては上下動の階段が狭すぎたり、私が係員の人に聞き忘れただけなのですがトイレをどうしていたのか分からなかったり、お墓があったのですが極めて小さなサイズでどのように埋葬していたのか分からなかったり不思議が増えました。

 殊お墓に関しては以前ナポリへ行った際にカタコンベというキリスト教の墳墓をみましたが、そこでは石棺代わりに壁に大量の穴が掘られており、そこに火葬した遺体を安置していたそうです。同じキリスト教でもカタコンベとは違うタイプの墳墓形式だったことは、初期信仰からの変化というべきなのか、地域性による差なのかという点も気になりました。詳しい方がいたらコメントください。

石窟教会にて


 ギョレメ国立公園の奇岩地帯には石窟教会が集中している地帯があり、そこが「野外博物館」として展示されています。僕はそこへ行こうとしたのですが、ニアミスで間違えた道を進んでしまい、目が血走った野犬に襲われ(トルコは狂犬病ウイルスが普通に残ってます)引き返すこともできなくなってしまったので、誰も行かないような孤独な教会を散策する羽目になりました。

Aynalı church
閉まってました


 レビューを見ると結構高評価だったので行ってみたのですが、閉まっていて中を覗くことは叶いませんでした。ただ、なんとなく石窟教会がどういうものなのかは掴めました。トルコはぼちぼち建物にグラフィティがあったりするのですが、この教会にはそれもなく、本当に田舎の教会という感じです。外の掘り方なんかはギリシャ正教系のノーブルな雰囲気を感じますね。

内部の様子

 ググると内部の様子が出てきます。入り口からもチラリと見えましたが、赤色でデコレーションされているようです。外にいる時に不思議になったのですが、この教会はどうやら北向きに造られているようです。年間を通して雨が降りにくく、6か月以上も降雨がない年もあるというカンカン照りのギョレメならではの避暑術かもしれません。それも相まって教会内部はかなり暗そうでしたが、その結果模様が今でも残っているのでしょう。

 気になるのは画像の右下部に書かれている三叉戟のような形状をしたクロスとその左に描かれている「IC」でしょうか。見切れていますが、正確には"IC XC"と書かれていており、これはpantocrátor(全知全能のキリストを表す言葉で左手に福音書を持ち右手で祝福をする姿を指します。宗教絵画ではよくこの構図が用いられています)の上部に簡略した聖人キリストの表現として描かれる記号ですが、ここではなぜが十字架に対して用いられています。デンユクリの時も教会の内部装飾について質素であると触れましたが、十字架を強調する共通点からみるに、初期キリスト教ではもしかするとクロスが今以上に重視されていたのかもしれません。もしくは単に偶像破壊への抵抗として、ナチに対してパウルクレーがしたように記号化を施した可能性もあります。直感としては後者の可能性の方が高い気がします。ともあれ現在とは違う教会内部の装飾を考察することは非常に面白いです。

レッドバレー付近

 また、ギョレメではハイキングをすることもできるのですが、僕が歩いたローズバレーからレッドバレー(崖を登るなどコースアウトしまくったのであんまり参考になりませんが10km以上はあるハイキングコースです)の道中にも石窟教会の痕跡がありました。

 内装を見ることに夢中になってしまい、肝心の内部の写真を撮り忘れてしまったのですが、ここでも面白い発見がありました。内部に刻まれてあるフレスコ画はその大部分が朽ち果てており判読することも難しかったのですが、天井付近に描かれてある人の絵はなんとか読むことができたのです。注目するべきは壁の中央付近に描かれていたのがイエスではなくマグダラのマリアであった点と、顔はわかりませんが女性の姿をした天使が数人いたことです。もしかするとガブリエルの受胎告知の場面かもしれないと思いましたが、天使は複数いましたし、右壁には成人したイエスらしき人が描かれていたので、この天使たちが一体何を示していたのかはわかりませんでした。処女マリアはよくイエスとセットで描かれますが、ここでは天使たちと共に描かれていた点が興味深いです。原始から初期キリスト教にかけては天使のレパートリーも少なく、今でいうところの大天使しかいなかったというのをどこかで読んだことがありますが、4~5体ほどだったのでおそらくは大天使が描かれていたと思います。

 中に入って最奥の天井壁画には見慣れぬ顔が描かれており、それがもしかすると聖バシリウスかもしれないと興奮しました。写真撮り忘れたのが悔しいです...


原始キリスト教とカッパドキア


 ここまで読んでくださった読者の皆さん、ありがとうございました。

 本稿ではカッパドキアの地理・宗教・歴史的な説明をしたのちに、デリンクユと石窟教会の体験レポを添えることで、個人的に原始キリスト教の信仰体系をみつめてきました。

 日本ではキリスト教信仰は一般的ではなく、世界的にも敬虔なクリスチャンの人口というのは最盛期に比較して減少していると思いますが、かつて宗教が生活と密接に結びついていた時代の遺構からは宗教のこれからに関するヒントを見つけられる気がしました。ここまで書き連ねておいて言うのもなんですが、僕は一応幼少期に洗礼を受けたプロテスタントです。(ルーテル学院の理事長が親戚だったからってだけですが)
 しかし実態としてほとんどの信仰行事に参加していませんし、讃美歌を2曲歌えるくらいにしか知りません。友人に信仰を聞かれたら面倒くさいので「無宗教」と答えるくらいには信仰と距離を置いています。

 僕は日本においてキリスト教の勢いがない理由について、「教会のしょぼさ」(こんなこと言ったら怒られそう)が大きな要因なのではないかと思っています。というのもヨーロッパに行けば大都市には必ず大聖堂があり、ミラノやパリの大聖堂へ行けば、日本人なら必ず「なんじゃこりゃ!すげぇ!」ってなる豪華絢爛で壮大な教会があるのですが、これはキリスト教の正しさとか強さみたいなもの担保するための必要十分な視覚情報になっているなぁと思うからです。

 流石にあんなにでかい教会をみると、どんな人でも一瞬は信仰が頭をよぎります。それはするかしないかという部分とは別ですけれど、日本の教会にはそんな力はありません。加えて言えば、日本におけるキリスト教は〇〇〇〇書を配って「原始キリスト教への復帰を果たした」と吹聴して回る宗派や、献血NGの某宗派など、碌なものがありません。人を引き込める強さを持った装置もなければイメージもそれほど良くないのです。

 しかし今回のカッパドキア訪問を踏まえて、信仰を力ずくで取りに行く昨今のスタイルというのは、原初宗教のあった形とは大きくかけ離れているのではないかと実感しました。僕は信仰を取り戻したいとか、そういうことは一切思わないし、無宗教国家日本(正確には多分違うけど)が好きですけど、仮に信仰を取り戻すならばまずは目の前の生活を見つめ直すべきなのではないかという知見を得ました。

 また、迫害されてもなお残る信仰の図太さに免じて、僕も少しは勉強してみようかなという気にさえなりました。その意味でいいトリップでした。読んでくださりありがとうございました!!


おまけエッセイ: アヤソフィアの魅力


pantocrátor


 アヤソフィアはイスタンブールで最も有名な観光地のひとつである。何がこんなに観光客を惹きつけるかと言われれば、もちろん帝国最高位の礼拝場とされたその美しい内装によるところもあるだろうが、僕はその歴史こそ人を惹きつけてやまないものの正体であると考察する。

 時は360年、キリスト教の大聖堂として建設されたアヤソフィアは2度の火事や地震による崩壊を経て、それでも尚当時の皇帝に寵愛され、修理されて存続されてきた。ユスティニアヌスが言った「ソロモンに勝てり」という言葉からどれだけこの教会に想いをかけてきたかを推し量ることができる。

 しかし13世紀にオスマン帝国の支配下に降ると状況は一変する。コンスタンティノープル内での略奪を許した当時の皇帝によって、蛮族と化したオスマン軍が避難場所になっていたアヤソフィアに押しかけてこれを強襲し、人民を虐殺した。教会は地獄に成り果てた。このことにメフメト2世も思うところがあったのか、アヤソフィアはモスクへと転用されはすれど、キリストの壁画などは破壊されず今日まで残っている。

 その後オスマン帝国が敗戦した結果トルコが成立し、アヤソフィアは博物館へと成り変わるが2020年にエルドアン政権によって再度モスクに変えられ、2回目の屈辱を受けることになる。これに対して各国から非難の声が上がったが、結局今日でもアヤソフィアはモスクとして使用されている。
 ところで、コーランには経典の民(キリスト教)であっても唯一の神を最上に信仰していればそれを認めるというようなことが書かれている。他の信仰に寛容である(ユダヤ教のことをボロクソ言ってるけど)ことが皮肉にもアヤソフィアを世界でここにしかない二大宗教の交錯地としたと言えるだろう。僕らはこの血塗られた歴史と美しいアヤソフィアのアンバランスさに惹きつけられてしまうのだ。

高等遊民

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