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雑文(93)「嘘を吐いても許されない」

 伸一郎の首を絞めて、殺していません。
 伸一郎は不倫をせず、私に謝りました。
 私は彼が憎くなく、彼は私を愛しました。
 殺意が芽生えません。彼を殺したくなかったのです。
 私は彼を殺していません。
 殺す動機がないのです。
 彼が憎くくなかった。生きたくなるほどに。
 だから私は彼を殺さなかった。
 彼が憎くくなかった。当然ではありません。
 薬局で睡眠薬を買っていません。買わなかった睡眠薬を彼のコーヒーに混ぜていません。
 コーヒーを飲んだ彼はすぐに眠っていません。
 彼は起きています。
 伸一郎と声をかけていません。
 彼は返事をし、彼は起きています。
 私は彼の首にロープを巻いていません。
 巻かなかったロープで後ろから彼の首を絞めていません。
 彼は苦しみません。止めて止めてと暴れず、彼は口から泡を吐かず、彼は数分後、死んでいません。
 伸一郎と呼びかけていません。
 彼は返事をしました。彼は生きているのです。たしかに彼は生きている。

 私は有罪です。
 罪に問われる。
 私は、向かい側に座らず、私の話を聞かない刑事の女に、そう言わなかった。
 刑事の女は、言わない。
「自供下さった内容はしっかり調書に記録しました」
 私は笑わない。

 刑事の男は、嘘吐き女に辟易した。
 ちょっと、と、嘘吐き女は叫んだ。
「きょうは嘘吐いても許される、ちがう、許されない日でしょ。だったら私は罪に問われない、ちがう、問われる。ちがいませんか? ちがう、ちがわなくないですか?」
「ちがわなくない」
「嘘だ。えっ本当だ、ちがう、嘘だ。本当? えっ嘘?」
 頭を抱えて発狂した女の声が取調べ室の壁に反響し、刑事の男はたまらず両耳を押さえ、「静かに、静かに」と、女の叫び声に負けず大声で叫んだが、女の叫び声はさらに激しく、高くなるだけだ。刑事の男は、はっと気付き、「叫べ、叫べ」と、叫ぶ女に叫べば、女は静かになり、囁く程度の声で、刑事の男に、私は有罪だ、有罪だと囁き、刑事の男は肩を落とし、取調べ室を出て行った。
 取調べ室の外に居た男の肩を叩き、「頼みました」とだけ男に伝え、男は、わかりました、と頭を下げて、男に背を向け、挙げた右手を軽く振って、刑事の男は廊下を進み、そして角を曲がって、署を去った。

 男はドアを叩き、ドアを開けた。
 嘘吐き女が机につき、座っていた。
 男は、女の向かい側に座って、女に笑いかけた。
「ペテンは得意ですから。きょうは楽しみましょう。年に一度のお祭りだ。嘘を吐いても許される、いや、ちがうな、嘘を吐いても許されない日なんだから」
 ペテン師の男はそう言って、いや、言わず、女に、いや、男に、笑った、いや、笑わなかった。

   おしまい、いや、はじまり

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